遠山利景 ⑨

 

 

「寛政重脩諸家譜 第5輯」

 

 『十一年の秋に及びて、ひまを窺い、明知を出て三河足助に至り、東照宮(家康)に奉仕せん事をこいたてまつるのところ、すなわち御許容あり。長一(森長可)これをきき、おおいに怒りて、かの一行が女を殺害し、屍を野原村の川辺にさらす。このこと御聴きに達せしかば、哀憐の仰をうかぶる』

 

 

 信濃国衆の人質を盾にしながら何とか美濃国金山城に辿り着いた森長可は、翌日には岐阜城に赴き弔辞を伝えると旧領に復した。しかし美濃国内は長可を排斥する動きがあり、かつての与力たちも離反して長可は孤立していた。

 まず長可は元与力の肥田忠政(米田城)を攻め落とし、加治田城も攻めたが、これは落とすことはできなかった。次に奥村元広(大森城)を城から追い落とし、長谷川五郎右衛門(上恵土城)を自害させると今城・下麻生城・野原城・御嵩城と次々攻略し、若尾元昌(根本城)平井光村(土岐高山城)妻木頼忠(妻木城)を帰順させた。

 長可は宿敵ともいえる遠山友忠(苗木城)を攻めたが、逆に奇襲を受け敗北する。やむを得ず、まず久々利頼興(久々利城)と和睦する。義父・池田恒興を通じて羽柴秀吉に接近すると「美濃取次」のお役目を獲得し、美濃攻略の大義名分を得ることに成功する。

 本多重次に徳川家の麾下に入ることを約束して明知城に戻った利景・一行はいきなり羽柴秀吉から「取次役」の長可に人質を出すよう書状で命ぜられる。今、長可に手向かっても敵わないと判断した利景は、やむを得ず一行の娘・阿子を世話役の老女二人を付け人質として金山城に差し出した。

 天正11年に入ると長可は久々利頼興を暗殺し久々利城を攻め落とした。さらに賤ケ岳の戦いでは羽柴方として参戦(立花山の戦い)すると、5月には再度苗木城を攻めたてて、ついに落城させた。友忠は徳川を頼り三河に落ち延びた。

 苗木城の落城を見て、利景はこのままでは明知城も危ないと悟り、密かに足助城に赴き家康に臣従することを誓った。しかし、このことが長可の知る所となり、激怒した長可は阿子と老女二人を殺害すると阿原村の川辺にその亡骸をさらした。

 明知城の家中で、幼かった頃の阿子を知らぬものはいない。利景・一行ら一族は悲嘆に暮れ、涙ながらに足助城の鈴木重直のもとに落ちた。かくして明知城は長可のものとなった。その日から明智遠山家で森長可への恨みを忘れたものはいなかった。

 

 

苗木城跡