遠山利景 ⑧

 

 

 

「大日本人名辞典」

 

 

 『遠山利景-----天正十年織田信長甲斐国発向の時猶子一行男方景を率いて徳川家康の麾下に属し武田勝頼滅亡の後は河尻與兵衛鎮吉等と甲府城を衛る。六月信長生害の後本国に帰る。利景父子駿河国に赴き江尻に於いて本多作左衛門重次に逢いて今より後麾下に従わんことを約して帰る。時に豊臣秀吉森武蔵守長一をして金山城を守らせ美濃一国の士をして長一に属し各々人質を出さしむ。』

 

 本能寺の変を知って河尻秀隆はまず耳を疑った。秀隆は信長の傍らで亡霊のように立っていた光秀を思い起こし「所詮、長くは持たぬ」と思った。しかしながら秀隆の手勢は5000人程度で、とても単独では光秀に対抗できない。ここは甲斐を守って天下の形勢を見るしかないと判断した。

 「さてと、美濃衆を何とすべきか」と秀隆は悩む。手勢は多いほど良いが、東美濃は光秀と関係が深い。やはりここは穏便に甲斐から出て行ってもらおう。

 甲府城を守っていた利景ら与力衆は突然、秀隆に呼び出され、本能寺の変を知らされる。秀隆は「何が起こるか分からない。よって各々は所領に戻って騒乱に備えよ」と命じた。武田家滅亡間もない事から甲信では一揆が頻発する恐れがある。利景らは一旦南下して駿河から徳川領を通って明知城に帰ることにした。

 

 古書では甲州征伐の際、利景は家康麾下として参加しているという。しかし河尻秀隆(岩村)や遠山友忠(苗木)が鳥居峠から信州入りしているのに、利景(明知)のみがわざわざ徳川麾下として三河・遠江を抜けて駿河から侵入したとは考えにくい。その後も秀隆の与力として甲州番をしていることからも東美濃衆として秀隆と共に行動していたと思われる。

 

 駿河の江尻城に入ると徳川家の重臣・本多重次が温かく出迎えてくれた。重次は豪放磊落にして陽気な人柄であったが、片目がなく片足もなく指も欠損していた。利景はその異形にも驚くが、頭脳の明晰さと忌憚ない率直な発言にさらに驚いた。

 重次は「信長如きは死んで当然だ。」と言い放った。比叡山や一向一揆さらに甲州での非道をあげつらい「これは天罰である」とまで断言した。利景は、ただただ驚くばかりである。

 重次の話を聞くにつけ徳川家の信長嫌いは相当なものだ、と利景は感じた。しかしその古臭く質実剛健な徳川の家風に惹かれるものがあった。こんな率直な物言いは織田家の武将からは一度も聞いたことがない。田舎武士の何とも言えぬ、懐かしい心意気を感じたのである。

 思えば息が詰まるような織田の世で行き場を失った多くの者が徳川家に頼って生きている。これからは小領主が一人で生きていける時代ではないのだ。我が一族が命がけで仕えるなら、家康公の外あるまいと利景は思った。

 利景は重次にこれ以降は徳川家の麾下に入ると約束をして明知城に帰った。しかし東美濃は大変なことになっていたのである。

 

 

本多重次(国立歴史民俗博物館 個人蔵)