遠山利景 ⑦

 

 

「松代町史 上巻」

 

 『時に(川中島)四郡の領民久しく武田氏に属して其恩顧忘れず、従って長可の入封を悦ばざる結果、水内郡三水村の土豪芋川某等之が巨魁となり、烏合の衆一万を率い海津、長沼城の修築工事未だならざるに乗じ竹槍、蓆旗を押し立て喧囂鬨を揚げて四月七日先ず長沼城に迫ると聞き長可は兵三千を率いて急行して之を防ぎ戦うべく先ず二千を伏し一千を陣頭に進め僞り敗れて退く、一揆の諸豪謀られるとは露知らず勝ちに乗じて追跡すれば、突如として二千の伏兵左右より起こり短兵急に突いて懸かる。

 (中略)

 巨魁芋川等を始め三千余人の首を切って織田信忠に注進した。依って信忠は其の功を賞した。』

 

 

 甲州征伐の恩賞として信濃国川中島4郡(20万石)を与えられた森長可は旧領金山城を弟・森成利(蘭丸)に譲ると海津城に入った。川中島の政情不安を利用して上杉景勝は土豪を扇動し、一万人にも及ぶ一揆を起こさせた。しかし烏合の衆に過ぎない一揆勢は織田軍の精鋭に敵うはずもなく、長可は3000の兵を以て一揆勢を撫で切りにして、その首3000余を信忠に送ったという。さらに領内国衆の妻子を海津城に住まわせ、占領地の治安を回復させた。

 川中島4郡の統治を完了した長可は直ちに越後に侵入すると国境を守備していた越後勢を破り、春日山城に程近い二本木に陣を張った。その頃、景勝は柴田勝家に攻められて窮地に陥っていた越中国魚津城の救援に出ていたが、春日山城の危機に驚いて引き返した。越後勢の後詰を失った魚津城はついに陥落した。西方の柴田と南方の河尻から攻め込まれた上杉家は、まさに存亡の危機に陥ったのだった。

 ところが、ここで本能寺の変が起きる。信長の死を知って、信濃国衆はすぐに長可を裏切り、各地で一揆が発生する。敵領内深く侵入していた長可は、たちまち窮地に陥るも、国衆から預かった人質を盾に使って信濃を南に下った。松本まで退却すると足手まといになった人質を皆殺しにして、更に木曽へと下った。しかし木曽義昌が長可の暗殺を企てていると聞き及び、本拠の木曽福島城に押し入ると一子・岩松丸を拉致し人質とする。義昌を恫喝しながら、ついに東美濃に入る。今度は苗木城の遠山友忠が長可暗殺を企てるも、嫡子を人質に取られている木曽義昌に懇願されて、友忠は思いとどまった。周囲が敵だらけという絶望的な状況の中、長可ついには旧領・金山城にたどり着いた。

 

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 森長可は甲州征伐でも軍規違反を繰り返し信長から厳重注意を受けている。退却の際も信濃国衆のみならず、同僚のはずの義昌友忠にさえ命を狙われている。敵味方からこれほど嫌われている男も珍しいものだ。恐らく方々で相手構わず人を殺してきたのだろうと思うと溜息しか出ない。

 周囲から鬼武蔵と呼ばれたこの男が東美濃に帰ってきた。

 

森長可(可成寺所蔵)