本能寺の変 ④

 

 

 

「明智軍記」

 

 

 『勝龍寺に偖さて軍立如何せんと評議せし處に城代三宅藤兵衛申けるは、各将此の小城に御坐ん事武略の拙きに以て候えば、坂本へ御帰城有て御計策候は、

 然べく奉存候御跡の儀は竝河八助中澤豊後守も唯今山手の陣より遁来り丹波武者三百計相見候間此の勢と引合せ其れ当城に相怺へ敵寄来りなば一戦を遂見苦く之無き様に可仕と申ければ光秀實もとや思いけん村越三十郎堀輿次郎進士作左衛門を策先打とし溝尾庄兵衛比田帯刀を後陣とし其の勢五百餘騎十三日の亥刻に勝竜寺を出川端を上りに北淀より深草を過ぎけるに共に戦いに人馬共に草伏ければ或いは疲伏し又は落失て計り小栗栖の里を歴ける所郷人共蜂起し落人の通るに物具剥げと訇る聲して鑓を以て竹垣ごしに無体に突きたりける日向守は馬上六騎目に通りし處に薄運にや有けるに脇の下を撞かれける是は何者なれば狼藉なりと云いければ郷人鑓を捨て皆々北去りぬ。』

 

 

 山崎の戦いで敗れた光秀は勝龍寺城で善後策を図った。羽柴軍はすでに城を囲っている。しかし辺りは暗くなり、羽柴軍の先鋒も損耗が大きく完全包囲とまではいかなかったようだ。

 城代の三宅藤兵衛(光秀叔父、明智秀満の義父)は「こんな小城ではどうにもならない。まずは坂本に帰るべきだ。」という。そこで丹波衆300人を陽動として出撃させて、亥の刻(午後11時頃)に後陣として溝尾庄兵衛が500騎余りで坂本を目指して出撃することにした。

 結局、光秀は小栗栖で里の落武者狩りに会うのだが、暗闇の中、十数騎の騎馬列の中6番目にいた光秀が不運にも当世具足の脇の下に鑓が突き刺さり致命傷を負ったというのだ。しかも「何者だ、狼藉者!」というと農民は鑓を捨てて逃げたという。この農民たちはこれ程の危険を冒しながら、何がしたかったのかのだろう。明智軍記は所詮、読み物・小説であるからあまり詮索しても致し方ないが、どうにも光秀の死には疑惑が多いのだ。そもそも勝龍寺城から出奔した部隊の中に本当に光秀がいたのか誰も分からない。影武者であったかも知れないではないか。

 さて光秀の死がどうあれ、時代は移り変わっていく。信長の横死は戦場に残された諸将の運命を変える。毛利氏との講和を取り付けた羽柴秀吉中国大返しを敢行し、上杉氏と争っていた柴田勝家、森長可は退却を余儀なくされた。丹羽長秀は大阪にいて最も光秀に対抗できる立場であったのに四国征伐軍は雲散し、秀吉と合流するしかなかった。滝川一益のいた関東は余りにも京畿に遠く、北条氏との神流川の戦に敗れてしまうのである。

 

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 ※「本能寺の変」はこれで終了です。

  次回から「遠山利景 編」を再開します。

 

 

勝龍寺城