本能寺の変 ③

 

本能寺の変 ③

 

 

 『六月朔日、夜に入り、老いの山へ上り、右に行くは山崎天神馬場、摂津国なり。左へ下れば、京に出る道なり。爰を左に下り、桂川打ち超え、漸く夜も明け方に罷りなり候。既に、信長公御座所、本能寺取り巻きの勢衆、五方より乱れ入るなり。信長も、小姓衆も、当座の喧嘩を、下々の者ども仕出し候と、おぼしめされ候のところ、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄砲を打ち入れ候。是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。』

 

 

 明け方近くの騒音に信長も小姓たちも、始めは、足軽同士の喧嘩でも起きたのかと思った。鬨の声が上がり銃声が聞こえると「さては、謀叛か」と色めきだす。それにしても何者かと問うと、森蘭丸が「明智の手の者のようです。」という。信長は一瞬、怪訝に思ったが、「是非に及ばず」というと奥の間に入った。恐らく光秀に謀叛される心当たりがなかったのだろうが、ただ今はそんなことを考えている場合ではない。もうすぐ50歳になるとは思えぬ素早さで、信長は気持ちを戦闘態勢に切り替えた。

 

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 光秀の謀叛は「三日天下」と言われるが、実際は6月2日(本能寺の変)から6月13日(山崎の戦)までの足掛け12日間である。

 謀叛当時の光秀は「近畿方面軍総司令官」であり、事実上の「管領(首相)」であった。信長は光秀に権力を与え過ぎてしまったのだ。

 

 具体的に考えてみよう

 ①直属軍を持ちかつ畿内与力大名を動員でき、普段は京畿を守備して、いざという時は各方面軍に対して信長本軍の先鋒軍として直ちに戦場に駆け付けることができる。(近畿方面軍総司令官

 ②信長に代わり旧幕府官僚を使役し、朝廷と交渉し情報を集め、戦略を練る。そして公的行事(馬揃え、家康饗応等)を取仕切っている。

 

 私が光秀を「管領(首相)」に例えるのは、公式行事を取仕切っているからである。これは想像以上にその主催者に権力を与える。中央官僚は忙しい信長よりも現実に行政を取仕切る光秀の顔色を窺っていたことだろう。

 前頁で光秀と秀吉では立場が違うといったが、他の方面軍司令官が占領地の軍事と軍政(知事)だったのに対して、光秀は中央の政治を取仕切っていた。いわば行政機関の長であり、京都管領(首相)であり、文句なく政権のNo.2であった。

 過去、多くの人々が本能寺の変の原因を探ったが、分からなかった。だから怨恨説だの過労による鬱病説だの色々出てきたのだろう。私は何らかの予兆があれば鋭利な信長はすぐに気づいていたと思う。つまり誰もが納得する分かりやすい原因は最初からないのだ。別の言い方をするなら、だからこそ謀叛は成功したともいえる。

 従って主たる原因は光秀の心の問題であったと思う。これを一般の人は過労による「鬱病だ」というのだが、私は「自分は何でもできる」という一種の万能感による躁状態であったと思うのだ。躁と鬱は紙一重であるが、日常とは異なる極端な行動に出たとすれば躁状態だと考える方が妥当であろう。

 

 

『本能寺焼討之図』楊斎延一画