本能寺の変 ②

 

 

「信長公記」

 

 『中国備中へ羽柴筑前相働き、すくも塚の城、あらあらと取り寄せ、攻め落とし、数多討ち捕り、並びに、えつたか城へ、又、取り懸け候ところ、降参申し、罷り退く。高松の城へ一所に盾籠るなり。(中略)芸州より、毛利・吉川・小早川、人数引率し、対陣なり。信長公、此等の趣聞こしめし及ばれ、今度間近く寄り合い候事、天の与うるところに候間、御動座なされ中国の歴々討ち果たし、九州まで一篇に仰せつけられるべきの旨、上意にて、堀久太郎御使いとして羽柴筑前かた、条々仰せ遣わされ、惟任日向守、長岡与一郎、池田勝三郎、塩河吉太夫、高山右近、中川瀬兵衛、先陣として、出勢すべき旨、仰せ出され、則ち御暇下さる。五月十七日、惟任日向守、安土より坂本に至りて帰城仕り、何れも何れも、同事に本国へ罷り帰り候て、御陣用意候なり。』

 

 

 信長に中国方面で毛利氏と戦っている羽柴秀吉から援軍要請があった。総勢3万人の羽柴勢は清水宗治が守る備中高松城を挟み、5万人の毛利勢と対陣している。高松城は秀吉の水攻めで孤立しているため、戦況は膠着しつつある。是非とも援軍を願いたいという。

 信長は毛利勢が5万人もいるとは思っていない。毛利の分国支配は織田家より弱く、石高の割には動員できる兵は少ないとみている。信長は毛利が講和を望んでいて、安国寺恵瓊黒田官兵衛が秘密裏に交渉していることを知っていた。秀吉は「五カ国割譲案」を目論んでいる様だが、それでは毛利氏の石高は百万石を超えるではないか。「猿め、勝手しおる。」と苦虫を潰す。

 秀吉には「俺が行くまで勝手をするな」と言っているが、どうにも信用ならない。光秀を与力衆と共に織田本隊の先陣として、すぐに中国に行ってもらうことにした。秀吉には何事も光秀に相談しろと言いつけた。

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 本能寺の変が起きた原因を詳細に語るのは、ここの本旨ではないので、専門に研究されている方に譲るとして、この機会に幾つか私の基本的な考えを述べてみたい。

 まず、信長と光秀の間の不和はなっかたと思っている。もし謀反につながるような深刻な不和があれば猜疑心の強い信長が畿内に光秀を置くことはない。恐らく信長は何故、光秀に裏切られたのか最後まで分からなかったことだろう。

 次に本能寺の変に黒幕等はいないと思っている。織田家のNo2となり、すっかり傲慢になった光秀を舌先三寸で操れるものなど誰もいない。

 そして謀反と長曾我部氏は関係ないと思う。それどころか私は四国征伐の絵を描いたのは光秀なのではないかと考えている。長曾我部元親を唆し、四国を内乱状態にしたのは光秀であろう。元親に敵対する諸将はいずれ信長に助けを求め、織田家の介入を招く。今度は追い詰められた元親が光秀に仲裁を依頼する。これは、そのまま英国のインド政策である。まさに「分割して統治する」ではないか。こんな絵が描けるのは織田家中では光秀しかいないだろう。この政策は豊臣政権でも再演されている。それに第一、元親がどうなろうと光秀には何の痛痒もないではないか。

 光秀が秀吉との出世競争に負けたというのも違う。織田家での二人の立場は異なるし、光秀の中国出兵も別に秀吉の指揮下に入る訳ではなく、信長本隊の先陣である。むしろ独断しかねない秀吉の目付であったと思う。

 考えても見て欲しい。これからの織田家はもう命運をかけた大きな合戦はない。大軍を催して各個撃破すればよいのだ。そうなると軍事能力以上に必要なのは兵站・補給であり、朝廷との外交であり、戦略であり、相手を騙す謀略である。この面で織田家中において光秀に勝る者はいない。武辺一辺倒の武将と異なり、行政能力に長けた光秀はこれからも益々活躍したことだろう。

 では、何故、光秀は謀反を起こしたのだろうか。光秀は想像以上に傲慢になっていたのだろうと思う。信長に天下を取らせたのは自分だとさえ思っていた。この頃、信長は必要以上に人騙し、力のないものに対して残酷になっていた。罪を犯した者、武力を持つ者を殺すならまだしも、ただの農民や女子供にも見境がなくなっている。

 これから天下を取るまでに、どれだけの血が流れるだろう。いや、信長なら朝廷に介入し、場合によっては皇室や貴族でさえ皆殺しにしかねない。この男に天下を与えるべきか?否である。だから自分が取って代わるべきだと思い、信長を殺したのである。

 光秀は信長に隷属する現実の自分の姿と、いつの間にか心に育った傲慢な自分の間に均衡がとれなくなった。上辺だけ信長を尊敬し敬愛する振りをしながら、心の中で信長を軽蔑し見下すようになっていた。

 しかし、いつでも取って代われるはずの愚かで粗野な信長は光秀を凌ぐ時代の寵児であった。自分が信長にへつらうように、頼りにしていた周囲の人々も上辺だけで光秀にも媚びへつらっていたに過ぎなかった。信長がいなくなって、ようやく自分が信長の裏方に過ぎなかったことに気づいたのであろう。

 

 

『織田信長 図像』(兵庫県氷上町所蔵)