本能寺の変 ①

 

 

 

「信長公記」

 

 『信長公、当春、東国へ御動座なされ、武田四郎勝頼、同太郎信勝、武田典厩、一類歴々討ち果たし、御本意を達せられ、駿河、遠江両国、家康公へ進められる。其の礼として、徳川家康公、竝びに穴山梅雪、今度上国候。一廉御馳走あるべきの由候て、先ず、皆道を作られ、所々御泊々に国持ち・郡持ち大名衆罷り出て、及ぶ程、結構仕り候て、御振舞仕り候へと、仰せ出され候いしなり。

 (中略)

 五月十五日、家康公、ばんばを御立ちなされ、安土に至りて御参着。御宿大宝坊然るべきの由、上意にて御振舞の事、惟任日向守に仰せつけられ、京都・堺にて珍物を調へ、生便敷(オビタダシキ)結構にて、十五日より十七日まで三日の御ことなり。』

 

 

 甲州の仕置きを終えて安土城に戻った信長は言い知れぬ全能感を感じていただろう。越後の上杉はもはや滅亡間近となり、中国の毛利が織田の軍門に下るのも時間の問題であった。四国征伐も難なく成し遂げるだろう。やがて天下を制することになる織田政権は足利政権とは異なる、より中央集権的な政権になるはずである。乃ち数カ国を有する百万石以上の大名の存在は許さないつもりだ。

 「…となると残る難敵は相模の北条三河の徳川か」と信長は考える。

 時を移さず、信長は加増のお礼として徳川家康と穴山梅雪の訪問を受けることになった。その接待役を仰せつかったのが惟任日向守明智光秀である。信長と光秀がその家康について何を話したのかは、今は知る由もない。ただ「信長公記」はその時の光秀の接待の在り様を「おびただしく結構」としている。

 

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 さて、ここで信長にとって光秀とは何者であったかを考えてみよう。光秀は信長の正室の従兄であり、寵愛する側室・妻木殿の義兄である。荒武者が多い織田家中で光秀の存在は極めて異質であった。まず武将として優秀であり、礼儀作法法令に詳しく、占領地の支配・軍政に長け、幕府や朝廷との調整交渉も得意であった。常に畿内を本拠としていたため、信長とは極めて近しかった。

 まさに信長にとって懐刀であり、織田家中の諸将にとって光秀は態度は慇懃でありながら、どこか他人を見下しているような実に恐ろしい存在だった。

 同時代の宣教師ルイス・フロイスの分析を見てみよう。

 「光秀は、才略、思慮、狡猾さを持っていて、全ての者から快く思われていなかった。裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、己を偽装するのに抜け目がない。戦争においては謀略を得意とする。信長の情に訴えるために信長を調べ上げ、必要ならば面前で涙も流す。」

 フロイスは宣教師であるから、異教徒である光秀を悪く言うのは当然であろう。しかしフロイスが個人的に親しく光秀と交流があったとは思えないから、これは光秀を取り巻く人達の評価であったと思う。恐らく「信長の傍らにいて誰も知らぬ間に陰謀策略を練っている、いけ好かない奴」と思われていたのだろう。

 私は決して光秀を悪く言っているのではない。荒木村重の一族を見るまでもなく、戦国時代にあって敗北とは一族郎党の死を意味する。織田家に中途採用された光秀にとって、主である信長に媚びへつらうことは当然のことである。信長が何を考えているかを調べる上げるのは、家臣なら誰でもやっていたことだ。光秀の一つ一つ言動に明智一族の命運がかかっているのである。妻子や家臣の命のためなら人前で涙を流すことなど何でもないことだった。

 もっと分かりやすく例えてみよう。光秀とは、豊臣政権の石田三成のような存在である。ただし、もって生まれた才覚は三成よりはるかに優秀であった。所謂「上位互換」である。三成のように陰謀が露呈して他の武将に恨まれるようなこともなかったし、行政ばかりで軍事に疎い事もなかった。そして何より、三成ほどの忠誠心もなかったのだ。

 

 

明智光秀像(本徳寺蔵)