遠山利景 ②
「武田三代軍記」
『両家、股肱・爪牙の臣を集め、五月二十日、合戦の商議をぞせられける。然る所に、徳川家の長臣酒井左衛門尉忠次、信長の前に進み出で、甲軍、僅かに二萬に過ぎず。然るに、長篠に押えとして勢を分かち、且つ鳶巣山に、二千人を籠め候。今宵、密かに間道を経て、鳶巣山に軍勢を差向けられ、彼の地を揉落し、勝頼の陣の後ろを、襲い候わば、長篠の押も狼狽し、勝頼の本軍乱れんが事、必定に候と申しければ、其時、信長、忠次を礑と白眼み、汝何ぞ之を知らん。今信長、家康会評して、未だ両将の胸意を出でず。然るを、汝武功を面に立て、みだりに非計を言訇ると、怒り給う。酒井忠次、赤面して言下に答えず。
少時あって、信長、独り忠次を召し、汝が謀尤良し。是最上の機術なり、と雖も、我れ衆の聞く事を恐るるが故なり。一刻も早く打立つべし。然りながら、郷導なくんば、危かるべしと宣う。忠次云、某、よく案内を知れり。願わくは検使を差副えられ候えと申す。』
天正2年(1574年)5月、勝頼は25000人の兵をもって小笠原長忠以下1000人で守る高天神城を囲った。長忠は直ちに家康に救援を求めたが、秋山伯耆守ら武田別動隊が南下の気配を見せたため、家康は一万人余りしか動員できなかった。家康は信長に救援を求めたが、信長が岐阜を立ったのは6月中旬であった。援軍が来ないまま高天神城は耐えきれず開城した。勝頼は降将を寛大に扱ったため、遠江で勝頼の人望は高まり、家康の声望は地に落ちた。
天正3年(1575年)5月、勝頼は15000人の兵をもって奥平貞昌以下500人で守る三河長篠城を囲った。長篠城は天然の要塞で武田勢の猛攻を能く凌いだ。貞昌はかつて武田家に従っていたため、もはや降伏は望めなかったのだ。
5月18日、信長は3万の兵力をもって徳川軍8000人とともに設楽原に着陣した。信長は直ちに防御陣の構築を命じた。広大な三重の土塁と馬防柵に囲まれた一帯は、まさに野戦築城と呼ぶにふさわしい壮大なものであった。信長はさらに各部隊を山陰に隠し全体の姿を見せないようにした。しかし長篠城を囲っている武田勢をどうやってここまで誘き出すつもりなのか、誰も分からなかった。
長篠城を攻めあぐねていた武田勢は鳶ヶ巣砦を築き、更に周囲に4つの砦を築いた。織田・徳川軍の来援を知った勝頼は有海村に抑えの兵を置くと、残り12000人を率いて設楽原に現れた。武田家の重臣は「信長が現れたのなら退くべきだ」と進言したが、勝頼は迷った。勝頼は石山方面で苦戦している信長が、大軍を率いて三河に来るとは思っていなかったのだ。織田軍は広く分散して全体像が見えない。「織田援軍は存外少ないのではないか。」と勝頼は考えていた。
その夜、織田・徳川連合軍の軍議が開かれた。徳川家重臣・酒井忠次は鳶ヶ巣砦の奇襲策を献上するが、信長はこれを「非計なり」と一喝、満座の席で恥をかかせた。軍議後、信長は直ちに忠次を呼び出し、「最上の策」と褒めたのち援軍を付けるから直ちに実施せよと申し付けた。
