明智遠山氏 ⑤
『濃州小里記』
「濃州小里記」に小栗氏との高山城をめぐる戦いに遠山景行の活躍が書かれている。この話は以前にも書いたが、「濃州小里記」では少々内容が違うので見てみよう。「濃州小里記」を直接見ることはできなかったので要旨という事で了解してほしい。因みに小里氏は土岐一族である。
『天文21年(1552年)土岐郡高山城の高山伊賀守光俊が死ぬと後継がいなかったため、可児郡御嵩城の小栗信濃守重則が高山城を攻めて占領しようとした。これを知った肥田民部は岩村城の遠山景前に知らせた。当時、武田家に臣従していた岩村家は武田信玄にそのことを伝えた。信玄は平井頼母と後藤庄助を大将に小里光忠、小里内作、小里右衛門太郎、小里助左衛門、遠山景行、遠山三郎兵衛、遠山左衛門佐らを高山城に向かわせた。
小栗信濃守は千人で大富山に陣を取り、川端に押し寄せた。平井・小里・遠山勢は浅野村に陣を取り、川を隔てて矢を射かけた。小栗は川を渡って戦い高山城に迫ったが小里と遠山景行の30余騎が馬上から鑓を執って真直ぐに進むと小栗勢が敗北したので川を越えて追った。
大富山の下で光忠が小栗の長臣を討取ると小栗は引き返した。その後、逆に御嵩城は囲まれ落城し小栗重則は自害したという。その結果、御嵩城までが武田氏の勢力下に入った。後藤庄助は討死したが、高山城には平井光行・頼母親子が入り城主となった。(濃州小里記)』
以前にこの話を書いたときは『明智定明が弟・定衡に殺害された混乱に乗じて、御嵩城の小栗信濃守教久が明智領となっていた高山城を奪い取ろうとした。』という内容であった。この小栗信濃守教久は重則の息子である。小栗氏はこれ以降も御嵩城で活動していて滅亡はしていない。また、高山伊賀守が明智家の家臣であったという説もある。遠山景前に通報した肥田という名前は明智氏の家臣の中にもいたと思われるので、妻木氏が救援を求めた可能性もある。どうも良く分からないのだ。
この天文21年(1552年)は斎藤道三が土岐頼芸を追放したことにより、美濃国中が混乱していた時期である。武田家が美濃国東部に進出し、遠山一族を臣従させたうえ、この事件で高山城の城主として家臣の平井氏をいれている。
結局、この事件の真相は良く分からない。ただ遠山景行は土岐・遠山両氏に顔が利く東濃でも重要な立場になっていることが分かる。