美濃国諸旧記 ⑤

 

 

 

 『主家の恨は心にあれど、現在の妹の聟の名あり、厚情猶甚し。某五十歳の上に満ちて、惜しからぬ命を一つ捨てんととして死を迷い、恥かしき名を取らば、清和天皇より二十一代の血脈を保ち、汚名を付けざる明智の一族、我のみにて悪名を付け、末代迄恥辱を残さん事、無念の儀なり。早く義龍方へ手切の使を送り、一門を催し当城に盾籠り、討手来らば、思の儘に戦いて、尸を大手の城門に曝し、本丸に墳墓を残すべしと、思惟を決して、討死と覚悟を極めたりける。時に弘治2年9月に至り一門を催して、明智の城に籠りける。』

 

 「美濃国諸旧記」の著者は、決戦に至る宗宿の心情を語り、ここから熱く合戦を描いていく。史書・軍記物と呼ばれる所以であろう。下図は明智方と義龍方の武将である。明智勢は870余名、義龍方が3700騎。「騎」とは一般には騎馬武者のことで一騎に徒や卒が4~5人つく。となれば総勢15000人ほどになるが、如何に攻城戦でも、さすがに多すぎるであろう。この様に戦況を詳細に記述されると、やはり一連の記述は実話ではないかと思ってしまう。

 一方、①明智庄長山に明智城はなく②明智庄は明智氏の所領ではないのなら、このような攻城戦があったとは考えにくい。まして光安=景行が事実と確認されると、主役の宗宿さえ、明智庄にはいなかったことになる。当時、遠山景行は恵那の明知城主ではあるが、義龍と争ったという事実はもちろん確認されていない。

 さて、思い出してみよう。実は長良川の合戦で明智家は一度、滅んでいるのである。それは妻木郷の明智家である。明智定明は道三を支持していたが、弟・頼安は義龍を支持していたようだ。定明は頼安(定衡)に殺されたという話(明智物語)もあるが、道三側について敗死したとも言う説もある。当主の敗死を受けて頼安が家中でクーデターを起こし、義龍側からの攻撃を避けるため「妻木家」を興したとも考えられるのである。

 一方で、明智光綱は病死ではなく、道三に殺されたという話もある。(細川記)「美濃国諸旧記」の著者が、この二つの事件を混同したとは考えられないだろうか。

  ①明智家の当主が殺され

  ②嫡男が逃げ落ちる(光秀・定政)

  ③そして明智家が没落する。

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 前述のシナリオを修正すると…

 

 ①1502年 光継が斎藤家の被官となる。

 ②      明智城(顔戸城)城代(地頭代)になる。

 ③1525年 光継(宗善)家督を光綱に譲る。

 ④1532年   長井規秀に小見の方を嫁がせる。

 ⑤1533年 規秀、長井長弘を殺害する。

 ⑥1535年   光綱、規秀と対立、追討を受ける。

 ⑦         光秀、光安(景行)を頼って恵那に落ちる。

 ⑧1538年 規秀、斎藤家を継ぐ。

 ⑨1554年 道三、家督を義龍に譲る。

 ⑩1555年 義龍、道三を長良川の戦いで討つ。

 ⑪     定明敗死を受け、弟・頼安「妻木家」を興す。

 ⑫       定政、家臣に守られ三河に落ちる。

 

 

 となる。もちろんこれは、歴史的事実として主張している訳ではなく、「もし私が歴史小説を書くとしたら、こんなシナリオ」という話である。

 

※ 追記 義龍が国政を握ると義龍軍の大将だった長井道利が明智庄の地頭代となっていることが

     確認されている。