美濃国諸旧記 ③

 

 

 『遠江守光継、家督を受継ぎ、明智に住し、代々の知行一万五千貫を領する。(今の七万五千石なり)大永元年の春、山岸加賀守貞秀の娘を迎えて室とせり。光綱、日頃多病なり。天文7年8月5日卒す。嫡子光秀、その時僅か十一歳なり。右幼少なるに故に、祖父光継入道の命として、叔父光安、光久、光廉3人、これを後見として光秀を守立て、城主とせり。』

 

 下図は、「美濃国諸旧記」による家系図である。 

 「美濃国諸旧記」によると明智光継は代々の知行を受継いだことになっている。しかし実際には受継ぐべき明智庄は守護代斎藤氏の所領であり、本領である妻木郷は弟の頼明が頼尚の後継者となっている。光継は行き場を失った牢人同然であり恐らくは親交のある国人に身を寄せているのだろう。その光継の子供たちが次々と美濃国内の有力家に養子に行き、有力家に嫁げたのは何故だろう。

 小見の方が長井規秀(道三)に嫁いだのは天文元年(1532年)と言われている。この前後に規秀は主君であった長井長弘を殺害している。この当時の美濃国は守護である土岐家が衰え、守護代・斎藤氏が台頭し事実上、美濃の国政を仕切っていた。更に、斎藤氏も内部分裂で力を失い、家臣である長井氏に権力が移り、更には当主・長弘を殺害し長井規秀が長井家を乗っ取り、やがて斎藤家をも奪い取り斎藤利政(道三)となるのである。この様に上り詰めようとしていた規秀が小見の方を娶った理由は、第一に人質であり、第二に明智氏との同盟であることは想像に難くない。つまり光継にはそれだけの価値があると規秀は見ていたという事である。

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 それを前提に、ひとつシナリオを考えてみよう。

 光継は始めから頼尚に絶縁されることは覚悟の上で義父に逆らった。頼尚と折り合いが悪く、いずれは廃嫡となると考えた光継は早々に守護代斎藤氏に内通し、その手先として美濃国内で隠密活動していたのではないか。それが頼尚の知る所となり、義絶廃嫡。行き場を失った光継に対して、これまでの功績として、正式に斎藤氏の被官となり、妙椿死後、主のいなくなった顔戸城に城代として入ったと考えれば、つじつまが合う。つまり明智庄は斎藤氏の知行のままで、その被官である地頭代として光継が居城した。その後、斎藤氏が衰え、重臣、長井長弘が権力を握る。その長弘を殺害し実権を握った規秀は明智城代である光継から人質をとり忠誠を誓わせ、東濃の藩屏としようと考えれば小見の方に「正室」の地位を与えた意味も分かる。因みに明智氏は美男美女が多く、小見の方も絶世美女だったと言われている。さらに明智長山城址が発見されるまでは「顔戸城が明智城である」と言われていたのだ。

 これはあり得るシナリオの一つではあるが、残念ながら状況証拠しかない。それに正直に言うと「明智城の落城」が本当にあったかどうか、私はまだ懐疑的である。