美濃国諸旧記 ①

 

 

             明智城の事並地の戦記

 

 『可児郡明智の庄長山の城主の事、一説に曰く池田の庄・明智の里とも云々。実は明智の庄なるべし、明智の城のありし地を、長山の地と言えり、是は字名なるべし。抑、明智城というは、土岐美濃守光衡より五代の嫡流土岐民部大輔頼清の二男、土岐明智次郎長山下野守頼兼、康永元年3月、始めて是を開築し、居城として子孫代々、光秀迄是に住せり。頼兼の舎兄を土岐大膳頼康という。是は其伯父頼遠卒去の後、総領職となりて、将軍尊氏公より、美濃・尾張・伊勢三カ国の守護職を賜り、其武威甚だ壮なり。』

 

 

 「美濃国諸旧記」は寛永末(~1644年)から正保年間(1644年~1648年)に成立した史書・軍記物である。「明智軍記」が元禄年間(1688年~1702年)の成立と言われているので約50年ほど古い。「明智軍記」を書くに当たり、作者は「美濃国諸旧記」を読んでいたことは間違いないと思う。特徴としては「明智軍記」が明らかに物語、娯楽用の読み物として書かれているのに対し「美濃国諸旧記」はあくまでも史書の形式であり、上記の通り淡々と歴史的事実が述べられている。その意味で「明智物語」よりは信頼性が高いように見えるのだが、実は一次資料との相違も多くみられ、内容の検証を要する文献でもある。

 上記の記述では、明智氏は可児郡明智庄長山の明智城に代々居城し光秀まで続いた、と書かれている。しかし歴史学者である小和田哲男氏によると『明智荘の荘園領主である石清水八幡宮には「石清水八幡宮文書」というまとまった古文書が収蔵されており、その中に十三通の明智荘に関する文書があるが、残念ながら明智氏に関するものは一通もない。』(「明智光秀・秀満」ミネルヴァ書房)という。また「可児市史」には「斎藤妙椿がまだ僧であったころ兄・利永の配慮で明智荘の地頭代に指定された。」との逸話も書かれている。要するに明智庄は斎藤氏の所領だったようだ。だから後に妙椿はこの顔戸城を自らの隠居城としたのかも知れない。

 このブログの最初のテーマで明智氏の居城がどこか探っていたのは、このような事情があったからである。前述のとおり明智氏の所領は妻木郷を本領とするその周辺で間違いないが、「土岐明智氏」に別系統の支族がいて、明智庄に居住していた可能性もあった。

 ただ、これを見る限り「美濃国諸旧記」がいう「代々明智氏が居城」していた可能性は低いと言わざるを得ない。