明智物語 ⑥

 

 

 

『その後、光秀は「土岐では愛菊丸をどこかに逃がしたと聞いたが、年月を経て成長したのなら、定明公の御子なので懐かしい、訪ねてみたいものだ。」と近臣に語った。』

 

 明智物語によると定明は家督を継いでから待望の男子(愛菊丸)を授かったようである。ようやくできた後継者にさぞ皆喜んだことだろう。そこで物語に出てくる人物の家系図とそれぞれの代表的な生没年をはめ込んでみた。実は光秀の年齢について考えてみようと思ったからである。下図・上段は通説による家系図及び生没年である。(異説あり)

 まず基準として頼典は1474~1538年とする。光綱は頼典が23歳の時の子で光秀は光綱が31歳の時の子となる。譲渡状の記述から弟の頼明は10歳くらい若いのではないかと仮定して生年を1484年と仮定した。次に長男定明は頼明25歳くらいの誕生として1509年生、次男頼安を30歳の時の子として生年は1514年生と仮定して、はたと気づいた。これは頼安の子である妻木広忠の生年である。広忠は明智軍の宿老で山崎の戦で自刃した時は69歳であったという。

 家系図から確認してみよう。頼典は兄であるから頼明の方が年下である。頼典>頼明であれば次世代は光継>定明>頼安の順番であろう。となれば次の世代は光秀>定政>広忠の順になるはずである。もちろん例外はあり得るだろうが、常識的に広忠が光秀より14歳も年長とは思えない。つまりこの系図には基本的な間違いがある。

 今一度、考えてみよう。元々の「頼安」とは通字としては明智氏の名である。つまり「明智頼安」であった可能性が高い。とすれば広忠は通字から妻木氏の名前であり「妻木広忠」だったのではないだろうか。前述のとおり美濃明智氏は妻木氏としての名を持つ者が多い。つまり私は年齢的に(明智)頼安=(妻木)広忠と考えた方がいいと思う。どうも親子ではなさそうだ。

 するともう一つの疑問が解決する。光秀と定政は家系図上では「はとこ」と思われるのであるが、沼田藩の文書には「従兄弟」という表記がいくつかある。これは光秀の正室「煕子」が定明の従兄弟だからだと思う。そうであれば確かに「明智光秀の家」と「土岐定政の家」は従兄弟同士となる。

 結局、光秀の年齢については後日検討とした。今回は成果として新たに下図・下段の家系図を提案したい。(赤書は検討のため想定した仮の生没年である。)それぞれの世代の年齢を検討したら、「妻木頼安」と「妻木広忠」は親子ではなく、恐らく同一人物である、という結論になった、というお話である。