明智物語 ⑤

 

 

 『土岐と遠山は本来の主のいない織田領の荒れ地となって、落ち葉で埋まった道を払うものもなく、月光が池を照らしても歌を詠む者もいなくなった。光秀は明智を維持する力もなく、自然と信長の配下となった。光秀一人は風に流さる捨て小舟、別れ別れにあちこちの遣り方もなき身となりて、浪の寄る辺りを頼りにて、信長公の幕下に属したのであった。』

 

 口述者である森政利は、この時既に遠江にいたので、光秀の行方を知るはずがない。よってこのような具体性のない記述になったのだろう。口述者によるとこの時、光秀は「若輩」だったので領地を失うことは仕方がなかったという。しかしながら、もし光秀が永正13年(1516年)生まれなら36歳、享禄元年(1528年)生まれでも24歳でこの時代では決して若輩ではない。要するに口述者から見れば定明、頼安と比べてかなり若い印象があったのだろう。

 

 このことから次のような推論ができる。

 ① 森政利は光秀に会ったことはあるが、日常を共にするほどは親しくはない。

 ② 光秀は、定明・頼安に比べてかなり若い。(年齢差は10歳くらいか?)

 ③ 森政利は、その後の光秀については信長に仕えたこと以外、知らない。

 ④ 両家は既に深刻な対立は克服し、それなりの親戚付き合いをしているようだ。

 ⑤ 光秀の家も全く落ちぶれている、というわけではないようだ。

 

 口述者によると当初、定衡は「遠山」に住んでいたというが、それがどこなのか全くわからない。遠山庄は恵那市あたりであるが、そこに定明の領地があったとは思えない。とすると光秀が「明智」に住んでいたというのも怪しく思える。「明智」と言えば先祖の故地である「明智庄長山あたり」「顔戸城(明智城)」「明知城(遠山)」ぐらいが考えられるが、正直言って良く分からない。ただ美濃国内には居住していたのではないだろうか。

 「明智物語」に現れる光秀は美濃明智家とは親しくはないものの「不倶戴天の仇」とまでは言えないようだ。「猶子」と位置付けているところを見ると「親戚」くらいの立ち位置ではないか。光秀も「妻木氏」から正妻を受け入れているところから、両家の関係はさほど悪くはなかったと思う。