明智物語 ④

 

 

 『私は女の身なので定衡の恨みが深い。せめて死んで怨霊になろうと思ったが、今、夫の仇を討たんとする謀を聞いたので恨みの一太刀を浴びせようと思う。』

 

 この頃、明智家は土岐頼芸を支持する定明派と斎藤道三を支持する頼安派に分かれていたようだ。天文21年(1552年)に斎藤道三は土岐頼芸を追放し、頼芸は六角氏を頼り近江に落ち延びた。恐らく、これに呼応して頼安は決起し定明を暗殺したのだろう。

 その後、明智物語では定衡が土岐城に乗り込むのだが、森政利ら9名の者が仇討ちを果たし、大立ち回りの末、遠江の国に落ち延びる。だが史実では頼安は生きていて、妻木氏を起こしているので両者には矛盾が見られる。

 頼安は幕府機能が既に瓦解しているような有様では、今さら「明智」を名乗る意義を見出せなかったので「妻木頼安」を名乗ることにしたのだろう。明智物語では定明の奥方は燃え盛る土岐城を家臣に守られ愛菊丸を抱いて実家の菅沼家に落ち延びることになる。

 一方、別の話もある。明智家の内紛に乗じて御嵩城の小栗教久信濃守が土岐高山城を攻略したという。この話は親の小栗重則だとか攻めたのは明智長山城だとか混乱が見られるが、ともに1552年のことなので美濃の動乱に関係している同一の事象であると考えている。

 それで私は次のように推測している。①当主である定明を暗殺された定明派は既に城内にも頼安派の勢力が浸透していることから妻木郷を捨てて土岐高山城に籠り再起を図ろうとした。②頼安は妻木郷を抑えたが、土岐高山城には手が出せなかった。③この状況見た小栗重則は息子・小栗教久に1,000名の兵をつけて土岐高山城を攻略し定明派は遠江に落ち延びた。④頼安は親戚の小里光忠に助けを求め、小里は遠山景行・岩村城にいた武田家家臣・平井光行・頼母とともに土岐高山城を救援し、小栗重則を討った。⑤戦後、武田家は平井光行・頼母に土岐高山城を与えた。

 こうして妻木郷は妻木氏による支配に移行する。光秀の正妻が妻木氏であることを考えると両家は和解していたとも考えられる。