明智物語 ②

 

 

 『初めて明智を名乗ったのは、清和源氏の嫡流、源頼政も末裔の土岐頼重である。その後、定明の代に至って、明智氏は土岐、遠山、明智の三家に分かれた。』

 

 「序」に書かれている明智氏の起源である。遠山氏は藤原氏の一族で源氏ではない。当然のこととして三家が分かれたのも定明の代ではない。しかし森政利の口述を記述した著者はこのような認識だあったという事は理解しておく必要がある。

 

 『明徳2年12月晦日、内野の合戦で数度の手柄を上げたので、土岐氏は八代の間、上総介頼明の時代まで美濃の守護であった。』

 

 解釈に悩むが、もちろん明智頼明は守護ではない。森政利は定明の家臣であるから、自分の主の家系が守護かどうかは間違うことはあるまい。これはやはり記述者の間違いであろう。

 

『明智氏は、土岐に居住した時は土岐氏と、遠山に居住した時は遠山氏と、明智に居住した時は明智氏と呼ばれていた。』

 

 まず『土岐氏は~』というべきだろう。当時、領主が地域名で呼ばれていたことは間違いなさそうだ。恐らく記述者は土岐氏と遠山氏の区別がついていない。地理的にも両者は近く、周囲から「土岐明智」「遠山明智」と呼ばれていれば記述者が同族と思うのも無理はないと思う。

 

『頼明には男子が3人いた。長男は彦九郎定明といい後に兵部大輔と号した。次男は新九郎定衡、三男は十兵衛光秀といった。』

 

 さて重要箇所である。

 父、頼明が亡くなった時、男子3人は土岐郡に居住していた。家督は長男である土岐定明が継いだ。定明は遠山の地を弟の定衡に与えて、その証として獅子王の剣を預けた。「今、懐妊しているわが子が七歳になったときお前からこの剣を渡してほしい。」といったという。よって定衡の名は遠山定衡となった。三男の光秀は実は猶子であり若年であったが、明智の地を与えた。光秀には旗飾りと血吸いの鑓を預けた。これが明智光秀である。因みに、この血吸いの鑓は現在も沼田市歴史資料館に伝わっている。

 さて何やら間違い探しをしている様だが、私はこれらの話を全てでたらめであるとは思っていない。何かしらの真実の痕跡が残っていると思う。ただ、本を出版するにあたり記述者は読者受けするよう話を丸めている可能性が高いと思う。

 例えば光秀が頼明の猶子であったとは考えにくい。しかし義絶した頼明の兄・頼典が京都明智家からの養子であれば光秀が美濃明智氏にとって「養子の家系」であるとは考えられる。記述者は口述者の言語が良く聞き取れず、理解できなかったか、あるいは面倒な説明を省き、いきなり「猶子」設定にしたのかも知れない。