明智一族 ⑨

 

 

 現実問題として今さら明智両家の合一などは出来ない。京都に生まれ育ち深い教養を身につけた御曹司と泥にまめれ悪名も恐れず妻木郷の領地化を目指す荒武者の考え方が一致するはずがないのだ。重要文書「土岐頼尚譲状」。私は明智氏の所領を調べるうちに、この文書を読み戦慄した覚えがある。重要なので全文を載せる。

 

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譲渡 美濃国土岐郡内 妻木村 笠原村 並びに駄智村 細野村 駄智、細野両所は各半名 宛て等知行のこと

右 実子 彦九郎に譲与する。兵部少輔 頼典は嫡子といえども 連々の不孝の義を度重ねたので 義絶を命じたところである。頼典並びに被官肥田蔵人は去月五日 弥十郎房頼を殺害のうえ 頼尚に敵対するに至った。前代未聞のことである。だから 頼典の子孫 末代までも 永久に許さない。

よって頼尚の遺産は悉く彦九郎に譲り渡す。鹿苑院殿様御判並勝定院殿様御判頼尚童名長寿丸之時、安堵之御判也など重要な判物16通をこの譲状に添えて渡す。もし頼典が これら以外の証文を持っていたといえども 既に義絶しているので 効力は及ばず 沙汰はない。この事は子々孫々にまで相違ないことを示すために譲り渡し状を書いた次第である。

文亀2年4月13日      土岐明智上総守頼尚

 

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 この文書をどう読むかは感性の問題なので意見が分かれるだろう。ここに現れているのは頼典とその血筋に対する救いがたい憎悪である。子々孫々まで祟ってやるという異常な執念である。

 さて、あなたに二人の兄弟がいて、兄の出来が悪く弟に遺産相続させようとした時「兄は不孝だから弟に相続させる。」と書くだろう。わざわざ「実子の弟」とは書かないはずだ。何故ならそれは自明のことだから。では何故、頼尚は「実子 彦九郎(頼明のこと)」と書いたのだろう。理由は一つしか考えられない。それは「嫡子の頼典は養子」であるということだ。この文書を書いた人間の気持ちになれば理解できるだろう。私には「この地はオレの実子が相続するんだ!」という叫びが聞こえてくる気がする。

 美濃明智氏に嫡子として養子を送り込めるのは京都明智氏しかない。

 それが私が「頼典」の正体が京都明智家の光兼であると思う理由である。