明智一族 ⑦

 

 

 明智氏の家系は難しい。将軍の直臣・外様衆となった明智頼秋の次は明智頼俊(頼秀)である。(以下この家系を「京都明智氏」と呼ぶ)頼俊は外様衆から奉公衆になった。そして幕府軍の一員として軍事行動もとっている。その跡を継いだのが明智玄宣(頼宣・頼連・光重)であろう。(それにしても明智氏はどうしてこんなに別名があるのだろう?)この玄宣が問題であった。

 明智玄宣は恐らく当代随一の文化人であり教養人であったようだ。京でも名の知られた存在で特に連歌師として高名を馳せた。連歌宗匠の宗祇から後継指名を受けたというのだから大変なものである。別の言い方をすると京都明智氏はすっかり都生活にも慣れ、高級武士として貴族化していたのではないかと想像できる。

 では、所領の妻木郷はどうなったのであろう?妻木郷は分家の明智頼定・頼尚が代官として荘園を管理していた。(以下この家系を美濃明智氏と呼ぶ)頼定は玄宣の弟という説と従弟という説もあるようだ。要するによく分からないという事だろう。いずれにせよ両者の対立は深刻だった。ついには幕府が和議を勧告する事態となった。ここでは美濃明智氏の目線から考えてみよう。

 妻木郷は江戸時代は妻木氏7,500石の知行地であったから恐らく周辺を含め1万石ほどの取れ高があったのであろう。そのあたりを地頭として荘園管理をするのは容易ではない。まず治安警察、行政、納税(地頭請)のため数百名の家臣がいたはずだ。家臣のうち半数以上は半農半士で生活は楽ではなかったはずだ。彼らにとって領主は代官である美濃明智氏であって京都で連歌を楽しんでいる京都明智氏ではなかったはずだ。妻木郷の代官であった頼定・頼尚も京都明智氏に不満が絶えなかったろう。苦労して集めた年貢の半数は荘園領主に持っていかれ、その中から地頭である京都明智氏に送金しなくてはならなかった。この頃は恐らく代銭納だろう。そして残ったわずかな銭で家臣を養い荘園を経営していた。家臣のわずかな俸給に「苦労を掛けてすまん」と労わるしかなったろう。

 そんな頼定・頼尚が「もう嫌だ!やってられね~ふざけんな~!」と思ったとしても致し方ない。京都明智氏から「早く金送って寄こせ」と言われても「ないものはない」と突っぱねる。京都明智氏も金がないと暮らしていけないから幕府に訴訟を起こす。こうして拗れた両家の抗争の中で「ここは俺たちの土地だ、誰にも渡すものか」との気持ちが美濃明智氏とその家臣の間に芽生えても致し方ないではないか。