明智一族 ④
頼重以降の明智氏の所領は、どう変化したのか、見てみよう。
(下表、所領の一部は簡略化している)
明徳元年の土岐康行の乱以降、土岐明智氏の所領は大きく減じている。明智頼篤は幕府側について何とか本領を守ったが、散在していた所領は維持できず全て失った。このことからも土岐明智氏の本領は妻木郷だという事が分かるのである。よって常識的に考て歴代の土岐明智氏の居城は妻木郷内にあったと考えられる。
一方、可児郡の明智庄は誰の所領であったかというと、これがよく分からない。荘園領主としては石清水八幡宮であったらしい。明智庄長山の3Km弱に斎藤妙椿が築城したという顔戸城がある。顔戸城は武家屋敷に堀を巡らした平城だったようだ。妙椿は守護である土岐氏を凌ぐほどの勢力を持ち、応仁の乱でも西軍として活躍した猛将である。また他氏の所領を横領することも多かったらしい。そう考えるとこの辺りは斎藤氏の所領だったのかもしれない。
土岐明智氏の居城はどこだろう。まず妻木郷には妻木城がある。しかし妻木城の築城は戦国期と言われている。また土岐明智氏の城としては土岐高山城がある。この城は土岐氏の庶流、高山氏が5代続いたが断絶し、以後土岐明智氏の所有となったようだが、如何せん妻木郷から遠く使い勝手が悪そうだ。
私は土岐明智氏の居城は現在の妻木城士屋敷跡だったのではないかと考えている。土岐明智氏は山城を持たず、妻木郷でも石垣と堀を巡らした武家屋敷を構えていたのではないかと思う。しかし戦国時代も中期以降は戦乱が絶えず危機感を持った土岐明智氏(妻木氏)が急いで妻木城を建築した。妻木城址には作りかけで放棄した大石等があるという。その際、妻木郷の明智屋敷は取壊されて資材は妻木城建設に利用されたのではないかと思う。
江戸時代に入ると今度は妻木城が放棄され、改めて明智屋敷跡に妻木城士屋敷が建設されたのではないだろうか。その理由は所領を支配する合理的な拠点はどこにでもある、と言うわけではなく、それにふさわしい地理的条件があるはずだからである。武家屋敷には後背に詰め城が作られることが多く、もともと妻木城はその詰め城だったのではないかと思う。周囲の環境が悪化したため詰め城を本格的な山城に改築したが、江戸時代に入り社会が安定したので再び元の麓に住み着いた。何故なら以前住んでいたところなら整地も盛り土もいらないからである。確かに山の上は寒いし道は遠い。誰だって便利な麓に住みたいという気持ちは良く分かる。
