写真は撮りたいと思った時に、すぐさまその場で撮るべきだ。

良いと思ってもその場でまた同じ場所を訪れたとしても、

時間帯、光の当たり方、天気、人通り、季節などなど、

同じ光景が見られる可能性はほぼゼロである。

」前見たときはよかったけど、今見たら微妙かな」

というのは気分の問題だけではない。

また、もうその場所に行けないということもありうる。

僕自身、今日用事で美大に行った際、撮り逃してしまった。

野外に設置された水道を見かけたのだ。

それはもう、むき出しのコンクリートに蛇口が並び、

絵筆を洗うためか、鮮やかな絵の具が散っていた。

それはもうすんばらしい光景だったワケだ。

しかし、集団で移動中だったのを理由に

愚かしくもカメラを出すことさえ出来なかった。

ああ口惜しい。口惜しや。

僕は二度ともうあの光景を見ることはないだろう。

写真とは本来そういうものだ。

撮りたいときに撮りたいものを撮ることは本当に難しい。

戦う相手は恥と外聞。

ああ透明人間になる超能力がほしいな。


ハイパーインド人ブログⅡ
素人写真好きなら分かっていただけるはず。

ビルの屋上のフェンスを乗り越えた自殺志願者の脳内で、

理性と本能が対立していた。

理性が言う。「さっさと死んでしまおう。飛び降り自殺がいい」

本能が叫ぶ。「いやだ!死にたくない!」

「なぜだい。生きていたって苦しいだけだ」

-「とにかく死にたくないんだ!」

「今までの人生を思い返してみなよ。良いことなんてひとつも無かった」

-「いやだ!死ぬのは怖い!」

「周りの人間と自分を比べてみなよ。きっと死んだほうが社会の役に立つよ」

-「怖い!怖い!死にたくない!」

「過去も未来も真っ暗だよ。希望は何もないんだ。ここから落ちてしまえば楽になる」

-「落ちたら痛い!あああ怖い!」

「死んだほうがマシにきまっているのに、どうしてそんなに嫌がるのさ」

-「高いところは怖い!ここから離れたい!死にたくない!」

「死ぬのをやめてもつらいよ。明日も嫌なことが待ってる」

-「怖い!やめよう!死ぬのは嫌だ!…でも、フェンスをまた乗り越えるのは面倒だし怖いな」

「ここまで来たんだ。もう遺書も書いた。フェンスに上るのは嫌なんだろ?」

結局その自殺志願者は死んでしまった。


理性と本能はたぶんいつもこんな調子。


ハイパーインド人ブログⅡ
意味わかんねえ人もクリック!








雲をあがめている宗教というのは聞いたことがない。

でもこれは不自然なことだと思うのだ。

夏のあの、実感のないくらい大きな入道雲や、

日の光を浴びて輝く雲、恵みの雨を降らす雲。

雲というのは、神とみなすために十分な

迫力と実力を備えているように僕には見える。

しかし空に浮かぶものの中でも、

お天道様、お星様、お月様、と天体は様付けであるのに対して

雲は雲以上の呼び名がない。軽視されている。

簡単に天体を覆い隠してしまうにも関わらず、

自然現象としての立場しか許されていないのだ。

雨乞いの時でも、雲そのものにお願いするのではなく

雨を司る神様にお願いする。

それは龍だったり精霊だったりするが、

なぜ体そのものから雨を落とす神はいないのか。

きわめて不自然である。

雷鳴だって、雲が怒っているという発想があるではないか。

なぜ雲の上に太鼓をもったオッサンがいることになるのか。

そして雲はタダの乗り物とみなされる。

手の届かない空に浮かんでいて、巨大で、

作物を育て、時には災害を起こす。

神としての条件は十分なはずなのに、雲はどうにも地位が低い。

これはどうにも納得いかない。


ハイパーインド人ブログⅡ
宗教作りたくなったらクリック!