大人を舐めた憎たらしい子供がしたり顔でしそうな質問ランキングナンバーワン

「どうして人を殺しちゃいけないんですか?」

きっとその憎たらしい子供は自信満々の顔で大人の顔をじろじろ眺め、

何か返事が返ってきたら屁理屈をコネてコネてコネまくることだろう。

いつか僕がいつかしたり顔で質問されたときのために、

僕は昔から、その答えを時たま考えている。

哲学的でもなく、抽象的でも、観念的でも、理想論的でもない、

反論が見つからなくなるような答えを探しているのだ。

屁理屈のコネようが無い、合理的な答え。

さて、僕が今のところ考えている答えは、「周囲の人に迷惑だから」だ。

悪とは突き詰めて考えれば人に不快感を与えることである。

極論だが、人のストレスを減らすために法は存在している。

もし殺された人に家族や恋人がいれば、

その人たちに多大なストレスを与えることになり、それは悪いことだ。

ありえないことだが、仮に犯人を除いて全人類誰にも知られていない人が被害者であっても、

殺人事件そのものが社会全体に不安の影を落とす。

殺人というのはどう頑張っても、大小の差はあれど、どこかの誰かにはストレスを与えることとなる。

それすなわち悪。


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なんだか味気ない論だが、今のところ僕はこれ。
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いつだったか、ある映画の予告がテレビで流れていて、

引っかかるものがあった。

近未来を舞台にした映画で、

人々は自分の本来の体の代わりに遠隔操作の

パーフェクトな人間の体のロボットを操り、

全員が全員美男美女の理想的な容姿を手に入れ、

老化に悩まされる人間もいない、といったような設定だった。

僕が引っかかったのは『全員が美男美女』という設定である。

容姿の優劣というのは、相対的なもののはずだからだ。

カッコ悪い人がいるからカッコイイ人が存在するのであって、

容姿の評価の基準は例外なく、『他の人より…』である。

皆がみんな、180cm超の足の長いスーパーモデルのような格好になれば、

スーパーモデルの体型は「平凡な体型」にいとも簡単に成り下がる。

その上、縄文時代だかのヴィーナス像や平安時代の絵なんかを見ていると分かるが、

人間の容姿の美的感覚は曖昧なものだ。

全員が美男美女というのはありえない。

なぜなら、全員が美男美女となった時点でそれは、

美男美女でなく個性の無い容姿となり、

美の基準は移り変わって、「過去の美男美女の基準」から外れた人間が

美男美女と持て囃されるようになるであろうからだ。


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日本史の授業を受けたとき、

近代のあたりの細々しさにウンザリしたことはないだろうか。

人の名前が羅列のようにして次々登場し、

事件の名前、条約の名前、団体の名前、主要な文化作品、

出来事の起きた年代はもちろん、重要なことになると日付まで。

現代に近づけば近づくほど、内容は細かくなってゆく。

一年刻みで次々と覚える事柄が登場する。

あまりにも情報の残り方が鮮明すぎるがために、

どの部分を省略していいのか分からなくなっている印象がある。

かつては何世紀とかの刻みの時期もあったのに。あの単純明快さは何処へ。

時間という強力なふるいが失われている近代、

教科書はまるである種の単語集のように成り果てている。

歴史は因果関係の塊であるかあらして省略が難しいのは分かるが、

このような状態がこのまま続いていけば果たしてどうなるだろう。

僕が心配しているのは、現代が教科書に載るようになる遥か未来である。

歴史の教科書というこの上なく強力な情報を保存するツールが存在する上、

情報化社会のために、あらゆる出来事は世間に広まらないことは無く、

保存されていく情報の量は膨張しつづけている。

僕は六法全書の如く分厚くなった歴史の教科書が出来上がるように思えてならない。

ああ哀れ未来の子供達。


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