レッスンスタジオの片隅に置いてあるベンチに腰を降ろして、落ちる汗を無造作に拭く。
踊るのは好き。
音に合わせて身体でビートを刻む間は全ての事を忘れていられる。
例えばそう。
この体のなかでモヤモヤしている黒い霧みたいなものも汗と一緒に排出されていくような気分。
ん?じゃあこれは嫌なものなの?
暫しタオルを見つめてみるけど、そこに何かが書かれているはずもない。
ま。どうでもいいか。
リセット完了したことだし。
スタジオの扉を開けて一歩踏み出すと、隣のスタジオからシューズが床に擦れる音。
何気なくドアの嵌め込みのガラスから中を覗く。
すっと延びた背筋。
その人の踊る姿はダイナミックで、そのくせしなやかで。
ずっと羨ましかった。
あんな風に踊れたら。
でも、私は私だ。
私にしか出来ないビートがある。
少しだけ気合いを入れてドアを開けると、前面全体に貼られている鏡の中の彼と目が合う。
少し驚いた顔をして、そのまま振り返った彼…ユノは全開で笑った。
「ボア!」
「久しぶり。今から?」
「あー…じゃなくて。個人的に」
なんかあったな。
なんとなく自分と似ている彼のことだから、きっと同じだ。
「相方と喧嘩でもした?」
「あー…まぁ、そんなとこかなぁ」
苦笑いしたユノは少し首を傾げて、解るの?って聞いてくる。
だから、私は端に置かれたベンチを指して。
「ちょっと話ししてってもいい?」
って、つい言ってしまったのだ。
気負わなくていい相手との会話は楽しくていい。
本当に他愛もない話。
例えば最近好きな洋服のブランドだとか、お店の情報だとか、ちょっとした愚痴とか。
もうそろそろ相手にも愚痴を吐かせてもいい頃かと本題に入ってみる。
「それで?喧嘩の原因はなんなの」
ユノはちょっと驚いた顔をして、ふいっと視線を逸らせると手で口元を覆う。
「俺が悪いんだけど。でもさぁ…理由がわからない」
「はぁ?」
悪いのはわかってて理由がわからないってなんなの。
「一昨日さ。ドンヘとばったり会って、そのまま遊びに行ったんだよ」
楽しくて、そんなに飲めないアルコールのキャパシティーをあっさり超えたユノは当然のごとくダウンした。
そしてそんなユノを当然放っておけないドンヘはユノのマンションまで送り届けてくれたらしい。
そこには何の問題もないはずなのだけれど。
「ただ朝起きたらチャンミンが居て、なんか凄い怒っててさ。とにかく背中からブリザード並みのオーラが…」
思い出しただけで怖いと、自分の腕を擦る。
『あんな死にそうな声で電話してきたから来てみれば何なんですかこの様はっ!! そうですか、そうですか、ドンヘヒョンと一緒はさぞかし楽しかったんでしょうね。えぇ、どうせお二人の間に入る隙なんてないんでしょうけど。だからって、飲めない酒しこたま飲んでぶっつぶれてんじゃねーって話なんですけど!?全く危なっかしい人だな、アンタ!』
それだけ言うと速攻帰っていったらしい。
あー…なんか…それ、分かるわぁ…。
チャンミンの気持ちを理解してしまった私としては、どうしたってそっちに肩入れしそうになる。
「なんかさ…酔ってて覚えてないんだけど、どうもチャンミンに電話して呼び出したみたいなんだよ。だから迷惑かけたのは反省してるんだけど、チャンミン基本優しいけどほんとに嫌なら絶対来てくれたりしないから、多分そのことだけじゃあんな怒らないと思う。だからさぁ…」
はぁぁぁぁ、と溜息をついて両手で顔を覆ったユノ
「俺、なんか嫌われるようなこと言ったとか、しちゃったのかなぁ」
…なんなのこの乙女。
私なんかより全然大きな体のくせに。
すいませーん。ここに乙女がいますけどー?
なんかもう、呆れるというか。
聞くんじゃなかったわ、これ。
それでも多分真剣に悩んでるであろう大男に加勢してあげることにした。
仕方ない。親友というより戦友の事だ。
一肌くらい脱いでやってもいいでしょう。
「あのさ、ユノ。今から私の言うとおりに彼に電話してみて」
「なんで?」
「いいから、する。もしかしたら突破口ありかもしれないから」
それでもまだ納得してないような顔をするユノににっこり笑うと、渋々といった感じで彼はバッグから携帯を取り出した。
「いい?」
伝える内容を手短にユノに言うと、数回瞬きした彼は
「それ、なんか謝るより恥ずかしくない?」
「じゃあ素直に謝れば?」
「…嫌だ。謝る理由がちゃんと分かってないで謝ったら、また怒るよ、あいつ。『なんで謝ってるのか解らないで謝るのは謝った事にならない』って」
「めんどくさいわね」
「でも、まぁ、正論だしな」
そう笑って番号を呼び出してコールする。
相手が出てくれるかどうかもわからないけど、多分向こうも今頃どうしたものかと考えてる頃だろうから丁度いいくらいだと思う。
ユノが緊張した面持ちで視線を上げた。
「あ。チャンミン。…まだ撮影中?…えっと、もし終わってたら飯行かないか?…っていうか、終わるまで待ってるから」
そう言って暫く難しい顔で押し黙っていたユノがほっとしたように微笑んだ。
ちょっとびっくり。
こんな柔らかく笑う人だったっけ?
「うん。今、いつものダンススタジオに居るよ。…分かった、待ってる」
通話を切ったユノは今度は真剣な顔で私をじっと見てくるから、ちょっと肩を引いてしまう。
「な、何!?」
「すげーな、ボア。これ何の魔法だよ」
魔法って…。
だって謝れないって言うならとりえあえず可愛く甘えてみるのが機嫌を直すてっとり早い方法かなと思ったんだけど。
そもそも、こういうことはあんたの得意分野でしょうに。
甘えていい人間はちゃんと見極めてるくせに。
なんせ相手はユノを溺愛してるチャンミンで、彼は多分怒ってるわけじゃない。
…怒らせたんじゃなくてさ。
その甘える相手がドンヘだったとこにやきもち焼いてるだけだと思う。
で、この天然さんはそこに全く気付けないわけだ。
天然たる所以かしらね。
「感謝して」
「うん。ありがとう」
ほんとに素直なんだから。
「で?まだ撮影残ってるとか?」
「…終わって帰る途中だって。近くだから迎えにきてくれるってさ」
「よかったわね」
じゃあ王子様のお迎えまで付き合ってあげますか。
「じゃあ、それまでの間ちょっと付き合って」
自分のバッグからダンスシューズを出して見せると、ユノはもちろんって笑ってくれる。
うん。
やっぱり貴方は笑顔の方がいい。
「あ」
スタジオのドアを開けたチャンミンが私の姿に目を丸くして、挨拶をする。
「じゃあ、私も帰るわね」
「うん。じゃ、また」
「近いうちに食事にでも連れてってよ。今日のお礼、貰ってもいいと思うのよね」
「あはは。もちろん」
「そう言って、なかなかスケジュール合わないんだよね」
そんな会話をしている私たちをチャンミンがまた複雑な表情で見ている。
多分、私だから、やくにやけないんだろう。
仲がいいのも解ってるし、色々あったあの頃に傍に居たことを感謝されてるふしがある。
私は自分の見てきたものを信じただけなのに。
でも、そんな困った様子のチャンミンを見てるのが楽しくなってきた。
苛めたくなるっていうのかなぁ。
二人して可愛いって腹立たしい。
でも、折角仲直り出来そうなのに、また拗れたらそれはそれで嫌だから私はチャンミンにビシッと指を向ける。
いきなりの行動にビクリと動きを止めたチャンミンに。
「あのね。私はユノとガールズトークしてただけだから!」
大きな眼を更に大きくして、次の瞬間。
チャンミンは盛大に吹き出した
「アハハハハ!もう最高!!」
「当たり前よ、私を誰だと思ってるのー?」
「ボア様!」
「ふふふー」
今度はユノが不思議そうに私とチャンミンを見て。
「だからなんの魔法だよ」
鞄を肩に掛けてスタジオのドアを開けながらユノを振り返る。
「内緒。自分で考えなさい。じゃあねー」
まったく。
犬も食わないような喧嘩。
私だって食べたくはないわ。
絞まりかけたドアの向こう側。
「え。なんで笑ってるんだよ、チャンミン!」
「なんでですかねぇ」
「わっかんねぇ!」
「いいんですよ。分からなくても」
「えー!教えてくれたっていいじゃないかー!!」
「あー!うるさいですよ!僕、腹減ってるんですから、早く行きますよ」
いつもと変わらない会話が聞こえて来て小さく笑う。
貴方達に幸あらんことを!!