ヒョクチェを無事デートに送り出し、珍しく急な呼び出しの電話もなく。
自分の部屋で過ごそうかとも思ったが文庫本だけを手に取ると再びリビングに戻ることにした。
そこには何を調べているのかノートパソコンを弄っているキュヒョンが居る。
彼にだって客室を与えているのだけれど、なぜかキュヒョンはこのリビングで作業していることが常だった。
そんな姿を時折視界の端に入れながら、シウォンは読みかけたままで止まっていた小説をソファーに凭れて読み始める。
ゆったりとした時間にキュヒョンがキーボードを叩く音だけが聴こえているが、それが妙に心地いい。
どれくらいの時間が過ぎたのか。
最後の一文を読み終えたシウォンがパタンと本を閉じて体を伸ばすとキュヒョンが顔をあげてこちらを見た。
時計を見るとデジタルの表示は間もなく16:00になろうとしている。
「キュヒョン。コーヒーでも飲む?」
「いただきます」
シウォンはキッチンに入ると吊り棚を開けて小さなコーヒーミルを取り出した。
豆を挽き始めると香ばしい香りが部屋を満たしていく。
「…そこから始めるんですか?」
「時間がある時はね。やっぱり挽きたての方が香りがいいし」
キュヒョンはクスンと鼻を鳴らすと口許に笑みを作った。
「確かに、いい香りですね」
首を回すと無造作に前髪を掻き上げて指で目頭を押さえたキュヒョンに、シウォンは小さく笑った。
自分が小説を読み終えるほどの時間パソコンの画面を見続けていたのだから、疲れるのも当然だ。
「髪、邪魔じゃないの?」
「…たまに。でもあまり顔を覚えられなくていいのでこれくらいの方が都合がいいです」
「ふぅん。そんなものなの?」
「そんなものです」
「でも、確かにその顔だったらすぐに覚えられそうだね。綺麗な顔してるし」
「キレイって…」
ぱかんと口を開けて固まったキュヒョンは、今度は慌てて前髪を一生懸命引っ張るようにして降ろし始める。
「あ。もったいない」
「もったいなく無いです!」
少し怒ったような口調はどうやら照れ隠しのようだ。
「言われたことない?」
「…」
返事はないもののむにゅ、と唇を曲げる様子から言われたことはあるんだなと推測する。
「もしかして、綺麗とか言われるの嫌だとか?」
「…そんなことは、ないですけど。でも男ですから、どうせならカッコいいとかの方がいいでしょ」
「そんなもの?」
「そんなものです。シウォンさんはカッコいいなんて言われ慣れてそうですから分からないかもしれませんけど」
なんだか本格的に拗ね始めているキュヒョンが可笑しくて笑うと「何で笑うんですか」と怒られた。
コーヒーを淹れたマグカップを彼の前に置いて、向かいに座る。
「そういえば…俺が帰ってくるときってキュヒョンはいつもリビングでなにかしらしてるよね。部屋が気に入らない?」
「あ。そうじゃなくて…。子供の頃からの癖というか…。僕、両親が居なくて祖父に育ててもらったんです。もちろん僕が子供の頃ですから祖父もまだ現役で働いてて。だから誰かが帰ってくる場所に居たかったんですよね。それがどうも抜けなくて」
悪いことを聞いてしまったかと思ったがキュヒョンの表情はただ懐かしそうな笑みを作っていて、少し安心した。
「そうか…俺も両親は子供の頃に亡くなったみたいだけど」
「…あ、の」
「あぁ。前社長である父は本当の叔父にあたるんだ。両親は事故で亡くなったそうだよ。…一緒に事故にあったはずなのにその事故のせいでそれ以前の記憶が俺には殆どないんだ」
全くすべてが消え去ったわけではない。
何かがきっかけで、ふと思い出すこともある。
それでも自分という存在すら曖昧だった。
両親の事も覚えていない。
だから叔父夫婦が自分を引き取って育ててくれたことも後になって知ったのだ。
記憶がない子供の自分にとって親が彼等であるという事を受け入れることはあまりにも容易かったのだから。
「記憶がないのは、不安だったりしますか?」
何故だかキュヒョンの方が泣き出しそうな顔をしていて、シウォンは慌てて首を横に振った。
「大人になってからなら不安だったかもしれないけれど。でもさすがに7歳くらいの事だから…。普通に記憶がある人間だってそれくらいの歳のことなら大人になればあやふやなものだろ?」
「そうです、ね」
キュヒョンがまたペンダントトップをギュッと握る。
「…不安とは違うけど、たまにね。大切なことを忘れてるような気はするよ」
思い出さなくてはいけないような。
忘れていてもいいような。
「それでも、今の貴方にどうしても必要なものでないのなら、思い出さなくてもいいと思いますよ、俺は」
キュヒョンは小さく息を吐き出すと、すっきりしたように微笑んだ。
「今のシウォンさんが、その記憶がない状態で形作られているならそれでいいと思います。そのままでいいと思います」
魔法か何かかと疑った。
今まで気にしていてた訳ではなかったはずなのに、急に肩から力が抜けたような気分になる。
キュヒョンといると、一人でいるときよりも楽に呼吸が出来ているような気がした。
ふっと笑ったシウォンはキュヒョンの顔を見る。
彼は同じように微笑んでいた。
「お腹減ったね」
「…ですね」
「食べに行こうか」
少し考えるそぶりを見せたキュヒョンが笑う。
「…ドレスコードが無いところなら喜んで」