「チェ…ねぇ…」
ここの主らしい人物は煙草盆の淵に煙管を当てて、刻み煙草の灰を落とすと、そのまま煙管をふっと吹いた。
「何十年と来てないって、さっきの番頭は言ってたけど?」
「来てねぇな。まぁ、この道もお蔭で悪さをするようなやつは通ってないし。困らない程度には『餌』はいただいてる」
にっと笑った主の名はキム・ヒチョル。
女性と見紛うほどの美貌の青年だ。
この器量なら迷い込んだ「人」の男女どちらからでも少しばかりの『餌』をいただくのは容易いだろう。
彼らの糧は生きている人間の命。
命とは言っても本当に魂を取るとか、寿命を削るとかではなく、生気と呼ばれるものだ。
人が生きるための力。
その力を少しばかり分けてもらう事で姿形や命を維持させている。
「まぁ、あれだけ見事な昇華ができる番頭が居れば悪さするようなものもよってこないだろうね」
「何?キュヒョナ、またやりやがったか。無駄に力を使うなって言ってるのに」
「キュヒョナ?」
「チョ・ギュヒョン。うちの番頭。力もらう機会なんてあんまりないから無駄に使うなって言ってんだけどなぁ…」
特殊なこの世界に住む物は「無」で、虫のような動物のようななんとも言い難い形容をしているのだ。
それでもあれがアマガエルという形をとっていたということは、まだ「記憶」がある魂だったのだろう。
あちらへの贐をしなければ、この世界で「無」の存在になる。
そうなってしまえば転生の輪に再び入ることは難しい。
「俺はパクの方からもらってる力だけで十分足りてるから、やるんだったらあいつにやって」
「…了解」
気のない返事に、それでも何か感じ取ったのかヒチョルはにっこりと微笑んだ。
「意外にいい奴だな、あんた」
「意外は余計だと思うけど…」
あはは、と声をだして笑って立ち上がったヒチョルが湯呑にお茶を注いでシウォンの前に置いた。
「…美味い」
「だろ?ジョンスに一番いいの持って来いって言ってるから。あ。パクのな」
さて、どうしたものかとシウォンは首を回して凝った肩を解す。
「…数日お世話になるかもしれないけど」
「かまわないよ。どうせ今の時期、誰が来るってわけじゃないからな。たまに迷い込んだやつくらいだ」
そうして部屋を宛がわれたシウォンは荷物を置くと窓を開ける。
さっきの番頭が相変わらず庭を掃除していて、こちらに気付くとふわりと笑った。
「…綺麗な顔してるよな」
ヒチョルとはまた違う。
どちらかと言えば愛らしいという表現の方がはまりそうな顔立ちは柔らかくて、迷い込んだ人間から力をもらうことも難しくはないだろうと思う。
また何か「形」のあるものをみつけたらしいキュヒョンは指を近づけてシャボン玉に触れるように柔らかくそれに触れた。
再び小さな光が弾けて消える。
「…また、やってる」
シウォンはガシガシと頭を掻くと庭に出る。
キュヒョンの腕をがっちりと掴むと、その手をぐっと握りしめた。
「え…?ちょっ、と…」
「いいから。とりあえず受け取って」
掌から伝わるぬくもりは紛れもなく自分を形作るための『餌』である「生気」でキュヒョンは困ったように顔を背けたシウォンの顔を伺う。
「え、と…。ありがとう」
「うん」
困った顔はどうやら照れの裏返しらしいと判断してキュヒョンは笑う。
こうして自分の形を維持していくだけなら、これだけの気でもそれなりの時間分はある。
ただ、どうしても迷ったままの小さな魂に贐することはやめられない。
「無駄に力を使うなって言われない?」
「言われる。けど…人の形はとれなくなってても何らかの動物だったりの形を保っていられる魂だから…記憶もあるってことだし。無にならないうちはまだ送ってあげられる。逝ったら生まれ変われる可能性だってあるでしょ。…それにヒチョルヒョンはああやって言うけど、自分だって大概は昇華するんだよ?」
「…ああ、そんな感じはするね」
ぞんざいには見えるけれど、そうでなければこんなに優しい道にはなっていないだろう。
「でしょ?」
自分の事を褒められたかのように微笑むキュヒョンの横顔を見て、シウォンはつくづく思う。
これはかなり不器用な子だな、と。
面倒だけど、嫌いじゃない。
2日目。
普通「生気」を与えることは自分の体力が奪われるものなのだけれど。
この旅館には温泉もあれば、出される料理もそこそこに美味い。
多少の力を奪われたところで、逆に生気が漲る状態で帰る状態の人間もいるんじゃないかと思うほどだ。
肌を触れ合わせることで力は分けられる。
少量ではあるけれど。
「あのさぁ…キュヒョナ…こんなのでいいの?」
二日目にしてすっかり馴染んだシウォンはキュヒョンを愛称で呼んでいる。
「何が?」
「こんな調子だったらちょっとだけしか力もらえないでしょ?」
「貰えるだけでもありがたいよ」
シウォンの肩の凝りを解しながらキュヒョンが神妙に答える。
マッサージも肌が触れるという点では確かに力を移すことができるだろうけど。
一番手っ取り早く、大量に力を移す方法としては「欲」と「生気」そして肌を触れ合わせるという全てが含まれた性行為だ。
さすがにそれはどうかと思うが、普通に手を繋いでいるだけの方がマッサージよりも多くの力を移せるはず。
「あぁ、もう。面倒くさいな…はい」
シウォンは手を差し出すとキュヒョンの手を握る。
「…」
「こっちの方が早いよ」
「そう、だけど」
「わかった。二人とも他の道の案内人と違って優しすぎるんだよ。知ってる?他のところなんてこっちに遠慮なしに奪い取るようなのも居るんだよ?わざわざ面倒な方法で摂らなくても俺は分かってる人間なんだから遠慮なく摂っておけばいいんだ」
「…慣れてなくて…」
「ん?」
「こういうの、慣れてなくて…どうしたらいいのかわからないんだよね」
「これでいいんじゃない?」
にっこりと笑ったシウォンにキュヒョンは肩から力を抜く。
「これでいいの、かな」
「と、思う」
「うん」
繋がれた手を見て照れくさそうに笑ったキュヒョンに、なんだかこちらまで照れくさくなってシウォンはごろりと畳の上に転がった。
流れていく体温が心地よくて、そのまま目を閉じる。
「シウォン?」
もう返事をするのも億劫になってそのままでいると、キュヒョンが呼吸で笑ってきゅっと手を握った。
「…いい人だね、シウォン」
こっちだって言われ慣れないよ、そういうの。
意識の隅でそう考えながらシウォンは睡魔に意識を預けることにした。