遺伝子とは。
親から子に渡す体の構造を決定づける設計図のようなもの。
遺伝子の本体はDNAという物質から成り立ち、全ての情報はこのDNAに集約されているそうだ。
とは言っても、そんなことはここ数十年の科学の進歩と人間の厭くことない探究心によって分かったこと。
それを人はすべて肌で感じ取っていたにちがいない。
それら全てをひっくるめて【血】という表現にしていただけで言っている内容はほぼ同じだ。
ただ【血】という単語はそういう意味だけに納まらず、血液自体もそう表すのだからややこしい。
そしてそんな【血】をしっかり受け継いでしまった俺はお蔭様で仕事に困ることもなかった。
もちろん、それは今となってはの話で、子供の頃には自分が周りの人と違うのだという自覚をするまでは随分と奇異な目で見られたということは記憶に傷として定着している。
「…よし、完了」
体を伸ばすと関節が少し痛む程にその場に座り続けていただけの俺に、子供の頃向けられたことのある視線が突き刺さる。
まぁ、この人には俺が少しばかりうろついた後、いきなり座り込んでなにやら考え込んでいるようにしか見えなかっただろうから仕方がないと言えば仕方がない。
「…あの…」
その背中からすこし怯えたように顔を覗かせたのはその伴侶らしき女性で、依頼は当然ながらこちらのものなのだろうと推測できた。
「…ここに小さい祠とか、記念碑的な物がありませんでしたか?古くてボロボロだったかも知れませんが」
途端に顔色を変えたのは男性の方だ。
「どうしてそれを…」
「何かがあったってことは何かを開くなり閉じるなりしている場所なんですよ。ここはあの世と
この世を結ぶ道が通ってます。それをこの辺りに家を建てるとかの理由で道をずらしてたんですよ。よっぽどの術者でないとこんなに上手くずらせないんですけど…。それを壊した結果、道が元に戻った。そこに家があった。それだけの事です。今、少しずらしたのでもう大丈夫ですよ」
デニムパンツの尻に付いた汚れを払いながらそう言うとあっけにとられたように見つめられた。
「あ。別に祠を作れとか言いませんから。そんな道標作らなくても俺のは強制的に捩じっただけなんで」
要するに。
能力を持った人間が修業したとかそういう事ではなく、完全に【血】というものでこういう事をなし得ている。
本能的なもの。
これを人に伝えろと言われてもまず難しい。
呼吸をするのと同じように当たり前の事だからだ。
陰陽道や霊媒師、そういったものとは多分存在が全然違う「チェ」の家の存在はこの世界では絶対の名前だが、知らない人間には全く知られていない。
だからこその希少価値もあるってものかもしれないが。
例えるとすれば、あの世とこの世の整備屋みたいなものだと思う。
本来あるべき場所にあるものは何の問題も起こさないただの道。
ちょっとした空間の捻じれや、強烈な念のせいで開くべき場所ではない場所に開いてしまった道を塞いだり、元に戻したり。
今回のようにあるべき場所ではあっても生きている人間が最優先のこの世では、申し訳ないが道を付け直す必要があったり。
これを生業としてやっていくことも【血】のお蔭ではあるだろう。
ありがたいことに労働時間は強要されない、仕事に応じてではあるけれど報酬もいい。
横に置いていたデイバックを肩に掛けると相手を煙に巻くように満面の笑みを作った。
「では、報酬は指定口座によろしくお願いします」
昔から馴染んでいる風景。
この街はゆったりとした時間の流れに合わせるように成長しているせいかこういう「道」も割と多く残っているのかもしれない。
ふと視線を向けた先にあるトンネル。
長編アニメ映画にこんなトンネルがあったな、と思う。
確かあのアニメでは抜けた先には神の町があったんだったっけ。
確かにこのトンネルは普通の人間には見えないだろうから、ある意味似ているのかもしれないが。
あの世とこの世の間にはもう一つの世界が存在する。
中間地点であるその世界はこちらから向こうへ行く時には色々なものを落としていく場所で、向こうからこちらへ来るときには休息の場ともなるそんな場所だ。
稀に迷い込む人間もいるが、しっかりと行く先を導く案内人が存在する。
お盆には道が開かれる。
どちらの人かを迷うことなく判断し、行くべき方へ贐する案内人。
生きている人間でもなく、死んでしまった魂でもなく、その世界でしか存在できない特殊な「人」
だからこそ特殊なものを糧とするその案内人にそれを与えることができるのは「チェ」の血筋の者が多い。
あとは同様に行き来できる「商人」の血筋の「パク」家くらいなものか。
「見たところ決まった『餌』はなし、か…」
少なくともチェの血の印は付いていなさそうだ。
「…仕方ないか…」
トンネルに足を進めるとその向こうに出る。
なんの変哲もない田舎道。
暫く歩くと小さな旅館が見えた。
「なるほど、旅館とは考えたな…」
ここの案内人のセンスの良さが窺える。
これなら稀に迷い込んだ人間が居たとしてもここに足を運ぶだろう。
小さいとは言っても丁寧に掃除された庭園。
その庭の小さな石灯籠の前に蹲っている男が見えた。
足元に何かブツブツと呟いて、暫くするとにっこりと微笑んだ青年は足元の小さなアマガエルを手に乗せた。
ゆっくりと立ち上がるとそれを空に向ける。
アマガエルだったそれは小さな光の粒になってふわりと風に溶けた。
「…あ」
あまりに見事な昇華に思わず声が漏れる。
その声に青年が振り返って自分の姿を確認すると、少し緊張したように呟いた。
「…お客様?」
「どうも。見事な昇華だね」
慣れた口調から察したのか青年が肩から力を抜いて首を傾げる。
「パクの家の人?」
「いや。あそこの血はここに出入りしてるでしょ?あそこは同じ血の人間が同じ場所で商売しないはずだけど」
「…まさか?」
「チェ。チェ・シウォン」
パチパチと瞬きした青年は
「チェの…何十年ぶりに見たな…」
と呑気に笑って旅館の引き戸をカラリと開けた。