今回は、ちょぃ前に一周忌の集まりをした石井広三会長の現役時代の経歴を紹介。
戦績 35戦 31勝(24KO) 4敗
元東洋スーパーバンタム級王者 (天熊丸木ジム所属)
高校で野球部に入るが上下関係が肌に会わずに退部、学校もやめて辰吉丈一郎に憧れてボクシングを始める。
この野球部の仲間で後の東洋王者渡辺博もいたみたい。
三重県桑名市から愛知県名古屋市までを毎日通ったらしい…
デビューから2戦連続KO勝ちのあと、2連続判定勝利、連勝を続け7戦目で中日本フェザー級新人王に輝くが西部代表のパンサー柳田に判定で敗れ(柳田はこの後西軍代表決定戦に勝利全日本決定戦に出場し勝利、全日本新人王に輝く)初黒星を喫する…
再起し、2試合は日本人相手に勝利(1KO)、その後は比国、韓国の選手と対戦し5連続KOし自慢の剛腕を披露。
16戦目に韓国人相手に判定勝ちするがその後又連続KO、22戦目に初タイトイル戦となるOPBFスーパーフェザー級王者決定戦をディノ・オリベッティと闘いこれを1ラウンで粉砕!見事東洋王者とともに世界ランキングをものにする。
その勢いに乗せて、世界タイトル挑戦!
WBAスーパーバンタム級王者、ネストール・ガルサ戦が決定!
ネストール・ガルサはエンリケ・サンチェスを下して戴冠、初防衛もこなしていて石井とは2度目の防衛戦であった。
この試合はまさに激闘!
12ラウンドフルで殴りあい、1ラウンドもだれたラウンドがないという激闘ぶりだった。
お互い効き、効かせ迎えた最終ラウンドポイントは1-1のイーブンであった。
この最終ラウンドを取るために石井は果敢に攻め込むのだが逆に倒され戴冠ならず…
世界初挑戦は失敗に終わる。
しかしこの激闘は1999年度の年間最高試合に選ばれたのだった。
まぁ石井会長としては負けたらどうしようもないみたいな感想を言ってたようですがオイラが大阪のパッションスピリッツボクシンジムで教えてる時にこの試合を見てボクシングは始めたって言う奴が入会して来てたし、かなりの人間に影響を与えた試合やと思う。
そういうオイラも石井会長が亡くなった時、追悼の意を込めて改めて見ましたが結果わかっててもハラハラするスリリングな攻防、本当に熱い戦いやったと感動しましたな。
この試合のあと、メキシコ、タイの選手をKOし、改めて世界戦が組まれることになったが、最初決まっていた相手アントニオ・セルメニョが逮捕されてたためにヨベル・オルテガと暫定王座決定戦を争うことに。
しかし、この試合は腰の疲労骨折の影響もありベストで挑めなかった…
結局この試合は11ラウンドTKOで敗北、二度目の挑戦も実らなかった。
この後は、タイ、インドネシア、メキシコ、韓国のボクサーと調整試合をしチャンスを待つ。
そして35戦目にWBCスーパーバンタム級王者、オスカー・ラリオスとの対戦が決まるのだった。
この試合は強打のラリオスに2回で倒されるが実質、腰痛に悩まされてまともな練習は出来ていない状態だったらしい…
この試合後、再起するために当時の日本王者中島吉兼に挑戦することが決まったのだが、椎間板ヘルニアの悪化によりキャンセル、引退に踏み切るのだった…
引退後は天熊丸木ジムでトレーナー修行した後、桑名市でKOZO BOXING FITNESS GYMを立ち上げる。
ジムの初興業でボクシングを始めるきっかけだった辰吉丈一郎をゲストに迎え成功を収めるが2012年7月5日急逝。
正直、こうやって戦績調べてると石井会長は日本人との対戦が少ないですな…
ジムの方針で世界しか狙わせてないというやり方だったんでしょうが、この当時スーパーバンタム級は世界挑戦するような選手がいっぱい居て好カードがいっぱい組めてたのにそれが実現しなかったのがものすごくもったいない…
ライオスにも挑戦した日本、東洋王者の福島学、その福島に勝ってる元日本二階級制覇王者、瀬川設男、世界王者になった佐藤”ハルク”修、試合が決まってたけど流れてしまった日本王者、中島吉兼、剛腕対決も面白そうな日本王者渡辺純一、この時代本当に良い選手がスーパーバンタム級にいましたなぁ~
その中でも一番頭が抜けてたのはやっぱり西岡利晃でしたな。
でも、オイラが一番観たかったカードは仲里繁さんとの対決でしたな。
色々名前出しましたがちょっと時期がずれてる人とかもいるかな?
でもランカーとか、日本王者、東洋王者と魅力的なボクサーが多かった。
それはただ単にオイラの思い入れが強かったからそう思うだけなのかもしれませんが
…
もう、この笑顔この世にない思うと寂しいですが彼のファイトは永遠です!