Neo幕末期2 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

Long Time ago.長い間、情報は隠蔽され真実は隠されて来た、But.絡繰は、より巧妙になり危険は更に増した・・

True ・・真実は動き始めた

This is a Fact

   Go Now ‼️ No Times❗️No way⁉️

   Sub Title "Back To 幕末(近世)beginning"

 Sumer‐Japanese Suite Lounge.

 Believe Tomorrow・・・

 

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Shin-Nichi ism WiLL Never Die

 

 ABE ism WiLL Never Die・・. For Ever‼️

 

⤵︎前回からの続きです⤵︎

■脱藩

 挙藩勤王を目指す武市(タケチ)は、積極的に方策を講じるとともに絶えず諸藩の動向にも注意し、土佐勤王党の同志を四国・中国・九州などへ動静調査のために派遣しており、龍馬もその中の一人でした。文久元年(1861年)10月、日根野弁治から小栗流皆伝目録「小栗流和兵法三箇條」を授かったあとに、龍馬は丸亀藩への「剣術詮議(剣術修行)」の名目で土佐を出て文久2年(1862年)1月に長州萩を訪れ、長州藩における尊王運動の主要人物である久坂玄瑞と面会し、久坂から「草莽崛起(ソウモウクッキ)、糾合義挙」を促す武市宛の書簡を託されています。萩へ向かう途中で宇和島藩に立ち寄り、窪田派田宮流剣術師範・田都味嘉門の道場に他流試合を申し込みますが、この田都味道場には土居通夫、児島惟謙がいました。

 

 龍馬は同年2月にその任務を終えて土佐に帰着しますが、この頃、薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わります。土佐藩が二の足を踏んでいると感じていた土佐勤王党同志の中には脱藩して京都へ行き、薩摩藩の勤王義挙に参加しようとする者が出てきました。これは実際には薩摩藩主・島津久光が幕政改革を進めるための率兵上洛でしたが、尊攘激派の志士の間では討幕の挙兵と勘違いされたものです。これに参加するべく、まず吉村虎太郎が、次いで沢村惣之丞(サワムラ・ソウノジョウ)らが脱藩し、彼らの誘いを受けて龍馬も脱藩を決意したものと思われます。脱藩とは藩籍から離れて一方的に主従関係の拘束から脱することであり、脱藩者は藩内では罪人となり、さらに藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われることになります。武市(タケチ)は藩を挙げての行動を重んじ、草莽の義挙には望みを託さず脱藩には賛同しませんでした。

 

 龍馬の脱藩は文久2年(1862年)3月24日のことで、当時既に脱藩していた沢村惣之丞や、那須信吾(のちに吉田東洋を暗殺して脱藩し天誅組の変に参加)の助けを受けて土佐を抜け出した龍馬が脱藩を決意すると、兄・権平は彼の異状に気づいて強く警戒し、身内や親戚友人に龍馬の挙動に特別に注意することを要求し、龍馬の佩刀(ハカセ)を全て取り上げてしまいました。この時、龍馬と最も親しい姉の乙女が権平を騙して倉庫に忍び入り、権平秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に門出の餞に授けたという逸話があります。

 

 脱藩した龍馬と沢村は、まず吉村寅太郎のいる長州下関の豪商白石正一郎宅を訪ねたが、吉村は二人を待たずに京都へ出立していました。尊王攘夷(ソンノウジョウイ)派・志士の期待と異なり、薩摩藩主・島津久光の真意はあくまでも公武合体であり、尊王攘夷派・藩士の動きを知った島津久光は驚愕して鎮撫を命じ、4月23日に寺田屋騒動が起こり薩摩藩、尊王攘夷派は粛清、伏見で義挙を起こそうという各地の尊皇攘夷派の計画も潰えました。吉村はこの最中に捕縛されて土佐へ送還されています。当面の目標をなくした龍馬は、一般的には沢村と別れて薩摩藩の動静を探るべく九州に向かったとされますが、この間の龍馬の正確な動静は明らかではありません。

 

 一方、土佐では吉田東洋が4月8日に暗殺され(勤王党の犯行とされる)、武市が藩論の転換に成功して藩主の上洛を促していました。龍馬は7月頃に大坂に潜伏しています。この時期に龍馬は望月清平と連絡をとり、自らが吉田東洋暗殺の容疑者とみなされていることを知らされます。

 

■中岡慎太郎

 幕府勢力から一連の打撃を受けて、長州藩には彼らを京都政治から駆逐した中心勢力である薩摩・会津両藩に対する根強い反感が生じており、一部の藩士はともには天を戴かずと心中に誓い、例えば「薩奸會賊(さっかんかいぞく)」の四文字を下駄底に書き踏みつけて鬱憤を晴らす者がいたほどでした。このような雰囲気の中でも、土佐脱藩志士・中岡慎太郎とその同志土方久元は薩摩、長州の如き雄藩の結盟を促し、これをもって武力討幕を望んでいました。龍馬は大村藩志士の渡辺昇と会談し、薩長同盟の必要性を力説します。渡辺は元練兵館塾頭で桂小五郎らと昵懇であったため、長州藩と坂本龍馬を周旋。長崎で龍馬と桂を引き合わせました。慶応元年(1865年)5月、まず土方と龍馬が協同して桂を説諭し、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させます。同時に中岡は薩摩に赴き、西郷に会談を応じるよう説きました。同年閏5月21日、龍馬と桂は下関で西郷の到来を待ったが、茫然とした中岡が漁船に乗って現れただけでした。西郷は下関へ向かっていましたが、途中で朝議が幕府の主張する長州再征に傾くことを阻止するために急ぎ京都へ向かってしまっていました。

 

桂は激怒して、和談の進展は不可能になったかに見えましたが、龍馬と中岡は薩長和解を諦めません。

 

討幕急先鋒の立場にある長州藩に対して、幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止しており、長州藩は近代的兵器の導入が難しくなっていました。一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していました。ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案しました。取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当しました。この策略によって両藩の焦眉の急が解決することになる為、両藩とも自然これに首肯しました。

 

これが亀山社中の初仕事になり、8月、長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300丁(チョウ)、ゲベール銃3,000丁の薩摩藩名義での長州藩への買いつけ斡旋に成功しました。これは同時に薩長和解の最初の契機となりました。また、近藤長次郎(この当時は上杉宗次郎と改名)の働きにより、薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入に成功し、所有権を巡って紆余曲折はありましたが10月と12月に長州藩と桜島丸条約を結び、同船の運航は亀山社中に委ねられることになりました。

 

9月には長州再征の勅命には薩摩は従わない旨の「非義勅命は勅命にあらず」という重要な大久保一蔵の書簡を、長州藩重役広沢真臣に届けています。11月に坂本龍馬は、五代才助を伴い下関に行き広沢真臣と、商社示談箇条書を結びました。

 

■薩長同盟

慶応2年(1866年)1月8日、薩摩藩・小松帯刀(コマツ・タテワキ)の京都屋敷において、桂と西郷の会談が開かれました。しかし、話し合いは難航して容易に妥結しません。龍馬が1月20日に下関から京都に到着すると未だ盟約が成立していないことに驚愕し、桂に問いただしたところ、長州はこれ以上頭を下げられないと答えました。龍馬はそれ以上桂を責めることはしません。しかし薩摩側が桂の帰藩を止め、1月22日、薩摩側からの6か条の条文が提示されました。その場で検討が行われ、桂はこれを了承します。これにより薩長両藩は後世薩長同盟と呼ばれることになる盟約を結びました。龍馬はこの締結の場に列席しています。盟約成立後、木戸は自分の記憶に誤りがないかと、龍馬に条文の確認を行い、間違いないという返書を受け取っています。

 

龍馬は薩長同盟成立にあたって両者を周旋し、交渉をまとめた立役者とする意見があります。これらのものでは、桂が難色を示したあとに、龍馬が西郷に働きかけ、妥協を引き出したとされます。逆に近年の研究者の主張で西郷や小松帯刀ら薩摩藩の指示を受けて動いていたという説を唱える者(青山忠正など)もおり、薩長連合に果たした役割は小さかったと考える研究者もいます。

 

盟約成立から程ない1月23日、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵(ミヨシ・シンゾウ)と投宿していた伏見の寺田屋へ戻り祝杯を挙げた。しかしこの時、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていました。明け方2時頃、一階で入浴していた龍馬の恋人のお龍が窓外の異常を察知して袷一枚のまま二階に駆け上がり、二人に知らせた。すぐに多数の捕り手が屋内に押し入り、龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を、三吉は長槍をもって応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出しました。負傷した龍馬は材木場に潜み、三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めました。これに龍馬は薩摩藩に救出されました。寺田屋での遭難の様子を龍馬は12月4日付の手紙で兄・権平に報告しています。

 

龍馬不在の長崎の亀山社中では、1月14日にユニオン号購入で活躍した近藤長次郎(上杉宗次郎)が独断で英国留学を企てて露見し、自刃させられる事件が起きていました。事件を知らされた龍馬は『手帳摘要』に「術数はあるが誠が足らず。上杉氏(近藤)の身を亡ぼすところなり」と書き残していますが、後年のお龍の回顧では「自分がいたら殺しはしなかった」と嘆いたと言います。

 

寺田屋遭難での龍馬の傷は深く、以後、それが理由で写真撮影などでは左手を隠していることが多いのではないかと指摘する研究者もいます。西郷の勧めにより、刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた龍馬は、2月29日に薩摩藩船・三邦丸に便乗してお龍を伴い京都を出立します。3月10日に薩摩に到着し、83日間逗留しました。二人は温泉療養のかたわら霧島山、日当山温泉、塩浸温泉、鹿児島などを巡ります。温泉で休養をとるとともに左手の傷を治療したこの旅は龍馬とお龍との蜜月旅行となり、これが日本最初の新婚旅行とされています。

 

5月1日、薩摩藩からの要請に応えて長州から兵糧500俵を積んだユニオン号が鹿児島に入港しましたが、この航海で薩摩藩から供与された帆船ワイル・ウエフ号が遭難沈没し、土佐脱藩の池内蔵太ら12名が犠牲になりました。幕府による長州再征が迫っており、薩摩は国難にある長州から兵糧は受け取れないと謝辞し、ユニオン号は長州へ引き返しました。

 

6月、幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始しました。6月16日にユニオン号に乗って下関に寄港した龍馬は長州藩の求めにより参戦することになり、高杉晋作が指揮する6月17日の小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験しました。龍馬はこの戦いについて、戦況図つきの長文の手紙を兄・権平に送っています。

 

長州藩は西洋の新式兵器を装備していたのに対して、幕府軍は総じて旧式であり、指揮統制も拙劣だった。幕府軍は圧倒的な兵力を投入しても長州軍には敵わず、長州軍は連戦連勝します。思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なり7月10日に大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の短い人生を終えました。このため、第二次長州征伐は立ち消えとなり、勝海舟が長州藩と談判を行い9月19日に幕府軍は撤兵しました(小倉口では交戦が続き和議が成立したのは翌慶応3年1月23日)。

 

先に帆船ワイルウェフ号を喪失し、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなりました。慶応2年(1866年)7月28日付の三吉慎蔵宛の手紙で龍馬は「水夫たちに暇を出したが、大方は離れようとしない」と窮状を伝えていました。この為、薩摩藩は10月にワイルウェフ号の代船として帆船「大極丸」を亀山社中に供与します。

 

将軍・家茂の死後、将軍後見職・一橋慶喜の第15代将軍就任が衆望されましたが、慶喜は将軍職に就くことを望まず、まずは徳川宗家の家督のみを継承していました。8月末頃、龍馬は長崎に来ていた越前藩士・下山尚に政権奉還策を説き松平春嶽に伝えるよう頼みました。龍馬が政権奉還論を述べた最初の記録だが、政権奉還論自体は龍馬の創意ではなく、幕臣・大久保一翁がかねてから論じていた事で、龍馬と下山の会見以前の8月14日には春嶽当人が慶喜に提案して拒否されていました。

 

尊王攘夷派の土佐勤王党を弾圧粛清した土佐藩でしたが、この頃には時勢の変化を察して軍備強化を急いでおり、参政・後藤象二郎を責任者として長崎で武器弾薬の購入を盛んに行っていました。航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬に注目した土佐藩は11月頃から溝淵広之丞を介して龍馬と接触を取り、翌慶応3年(1867年)1月13日に龍馬と後藤が会談しました(清風亭会談)。この結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として4月上旬頃に亀山社中は「海援隊」と改称しました。

 

海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸、交易、開拓、投機や土佐藩を助けることなどとされ、海軍と会社を兼ねたような組織でした。隊士は土佐藩士(千屋寅之助、沢村惣之丞、高松太郎、安岡金馬、新宮馬之助、長岡謙吉、石田英吉、中島作太郎)及び他藩出身者(紀州藩の陸奥陽之助、越後長岡藩の白峰駿馬)など16~28人、水夫を加えて約50人からなっていました。 同時期、中岡慎太郎陸援隊を結成しています。

 

■北海道開拓計画

龍馬は海運通商活動以外に蝦夷地の開拓も構想しており、後年、妻のお龍も「私も行くつもりで、北海道の言葉の稽古をしていました」と回顧しています。一方で、海援隊の経済状態は苦しく、開成館長崎商会主任の岩崎弥太郎(三菱財閥創業者)は度々金の無心にくる海援隊士を日記に「厄介もの」と書き残しています。

 

亀山社中創設後に薩摩藩小松帯刀の支援で洋帆船「ワイルウェフ号」を購入しましたが、慶応2年(1866年)5月2日に暴風雨により沈没し、社中のメンバー12人も遭難死してしまう。また、同年に薩摩藩の保証でウォルシュ商会から購入した洋型帆船「大極丸」は、支払いの問題から運航不能となります。

 

海援隊結成からほどなく「いろは丸沈没事件」も発生しました。龍馬は大洲藩籍の蒸気船いろは丸を1航海500両で契約して運用していましたが、1867年(慶応3年)4月23日の晩、瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖ではるかに大型の紀州藩船「明光丸」と衝突し、大きく損傷して沈没しました。龍馬は万国公法をもとに紀州藩側の過失を厳しく追及。更には「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」の歌詞入り流行歌を流行らせるなどして紀州藩を批判しました。後藤ら土佐藩も支援した結果、薩摩藩士・五代友厚の調停によって、5月に紀州藩は「いろは丸」が積んでいたと龍馬側が主張したミニエー銃400丁など銃火器35,630両や金塊や陶器などの品47,896両198文の賠償金83,526両198文の支払に同意した。その後減額して70,000両になりました。

 

1867年(慶応3年)11月10日、死の直前の林謙三宛ての手紙は大極丸のことが述べられていました。

 

当時の土佐藩上士は公議政体論が主流でしたが、乾退助(のちの板垣退助)は、土佐藩の上士としては珍しく武力討幕を一貫して主張し、江戸の土佐藩邸に水戸勤皇浪士・中村勇吉、相楽総三らを隠匿していました(この浪士たちが、のちに薩摩藩へ移管され、庄内藩などを挑発して戊辰戦争の前哨戦・江戸薩摩藩邸の焼討事件へ発展します)。

 

慶応3年5月(1867年6月)、乾退助は中岡慎太郎の手紙を受けて上洛し、5月18日(太陽暦6月20日)、京都東山の料亭「近安楼」で、福岡藤次や、広島藩の船越洋之助らとともに中岡と会見して武力討幕を議しました。さらに5月21日(太陽暦6月23日)、中岡慎太郎が仲介して退助を薩摩の西郷隆盛に会わせることとなりました。

 

中岡慎太郎は、ただちに書簡をしたため薩摩藩と土佐藩の間で武力討幕の密約が締結されたことを知らせ、土佐勤王党の同志に、「檄文」(ゲキブン)を飛ばしました。

入れ違いに大政奉還論を意図した後藤象二郎と坂本龍馬が上洛し、6月22日(太陽暦7月23日)に薩摩藩と薩土盟約を結ぶことになります・・・

いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は慶応3年6月9日(1867年7月10日)に藩船「夕顔丸」に乗船して長崎を発ち、兵庫へ向かいます。京都では将軍・徳川慶喜および島津久光、伊達宗城、松平春嶽、山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤は山内容堂に京都へ呼ばれていた。龍馬は「夕顔丸」船内で政治綱領を後藤に提示した。それは以下の八項目でした。

 

後藤は9月2日に京都へ戻ったが、イカロス号事件の処理に時間がかかったことと薩土両藩の思惑の違いから、9月7日に薩土盟約は解消してしまった。その後、薩摩、土佐両藩は薩土討幕の密約に基づき討幕の準備を進めることになります。

 

9月2日付けの、桂小五郎(当時は既に木戸姓を名乗っていた)から龍馬宛に送られた手紙が残されています。龍馬はこの手紙をもらった後、独断で土佐藩に買い取らせるためのライフル銃を千丁以上購入し、藩の重役に討幕への覚悟を求めました。

 

■土佐勤王党員の釈放

慶応3年(1867年)9月6日、大監察に復職した乾退助(後の板垣退助)は薩土討幕の密約をもとに藩内で武力討幕論を推し進め、佐々木高行らと藩庁を動かし、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助、安岡覚之助ら旧土佐勤王党員らを釈放させました。これにより、土佐七郡(全土)の勤王党の幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決断。武市瑞山(武市半平太の師範名)の土佐勤王党を乾退助が事実上引き継ぐこととなります。

 

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 乱筆乱文駄文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 

 

出典:You Tube、wikipedia、新版日本国紀(百田尚樹著)外