Neo幕末期 | box03のブログ

box03のブログ

 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

True ・・真実は動き始めた

This is a Fact

   Go Now ‼️ No Times❗️No way⁉️

   Sub Title "Back To 幕末(近世)beginning"

 Sumer‐Japanese Suite Lounge.

 Believe Tomorrow・・・

 

Back To

image

ここから本編です⤵︎

Shin-Nichi ism WiLL Never Die

 歴史は繰り返すと言います。だとすれば過去の歴史を把握する事で先に起こる未来を予見する事が出来ます。歴史論壇の間ではこの様な事象を「歴史の工学性に学ぶ」と言い、総称して歴史工学と言いました。

 志を共にする故・安倍先生の友人であり歴史の大家、百田尚樹先生がYouTubeで次の様なメッセージを出されました。

 つまり、歴史から学ぶ、特に現代史に応用できる時代は「幕末」であると・・。

 このブログは営利目的ではありませんので関係諸氏の方々には趣旨をご理解の程、何卒ご容赦くださいませ。

 ABE ism WiLL Never Die・・. For Ever‼️

 

序章

 

◾️黒船来航

 嘉永5(1852)年6月、オランダ商船長は、1年後にアメリカ艦隊が開国要求の為に日本にやって来ると言う情報を幕府に伝えます。

 幕閣等はその時にどう対応するかを議論したものの、結論を出せずにいました。

 嘉永6(1853)年6月3日、ペリー率いるアメリカの軍艦4隻が浦賀にやって来ました。

 

 そして、武力行使をほのめかし開国を要求します。この時、幕府は慌てふためくばかりでした。と言うのも何の準備も用意していなかったからです。

 そして、ここから幕府も日本全体も開闢以来の混迷の時代を迎えます。激動の幕末を語る前に、アメリカ側の事情を述べておきます。アメリカが日本に開国を求めた理由は、日本が捕鯨船の寄港地として最適だったからです。当時、捕鯨はアメリカの重要な産業の一つでしたが、捕鯨船は1年以上の航海を行う為、大量の薪や水や食料を入手できる補給拠点や、難破した時の為の避難港が必要だったのです。捕鯨の目的は、ランプの燃料となるクジラの脂を取る事でした。

 当時、まだ石油(灯油)は使われておらず、ペンシルベニア州でアメリカ初の油田が発掘されたのは安政6(1859)年です。

 

(中略)ペリーは日本に来る2年前、日本遠征の基本計画を海軍長官に提出していますがその中に次の様な文章があります。

 

 「日本人は蒸気船を見れば近代国家の軍事力を認識する筈だ」「シナ人に対したのと同じ様に、恐怖に訴える方が友好に訴えるより有効である」とまさに舐められていたのです。

 

 しかし、それが外交です

 

 この時アメリカ艦隊はいつでも戦闘を開始できる状態でした。

実は、米国は3年前に、オランダに『日本との交渉の仲介』を依頼して断られています。

 ペリーが日本の海の玄関である長崎ではなく浦賀に来たのは、オランダに交渉の邪魔をさせない為でした。

 ペリーは、日本遠征が決まった時から、前述のシーボルトやゴローニンの書いた本を読み、日本人の性質を徹底的に研究していました。

 この様に事前に様々な情報を仕入れ、用意周到にやって来た米国艦隊に対し幕府はと言えば、オランダ商船長から1年も前にペリー来航の情報を知らされていながら、欧州船や米国船の来航頻度が年々高まり、開国要求も強まっていく中にありながら、幕府はきたるべきXデーに全く備えていなかったのです。

 

ここで幕末には切っても切れない偉人、坂本龍馬について言及してみます・・・

龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の6月3日、ペリー提督率いるアメリカ海軍艦隊が浦賀沖に来航しました(黒船来航)。自費遊学の龍馬も臨時招集され、品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就きました。龍馬が家族に宛てた当時の手紙では「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っています。

 

 同年12月、剣術修行の傍ら龍馬は当代の軍学家・思想家である佐久間象山の私塾に入学しました。そこでは砲術、漢学、蘭学などの学問が教えられていました。もっとも、象山は翌年4月に吉田松陰の米国軍艦密航事件に関係したとして投獄されてしまい、龍馬が象山に師事した期間はごく短いものでした。

 

 安政元年(1854年)6月23日、龍馬は15か月の江戸修行を終えて土佐へ帰国しました。在郷中、龍馬は中伝目録に当たる「小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条」を取得し、日根野道場の師範代を務めました。また、ジョン万次郎を聴取した際に『漂巽紀略』を編んだ絵師・河田小龍宅を訪れて国際情勢について学び、河田から海運の重要性について説かれて大いに感銘し、のちの同志となる近藤長次郎や長岡謙吉らを紹介されています。また、この時期に徳弘孝蔵の下で砲術とオランダ語を学んでいました。

 

 安政2年(1855年)12月4日、父・八平が他界し、坂本家の家督は兄・権平が安政3年(1856年)2月に継承しました。同年7月、龍馬は再度の江戸剣術修行を申請して8月に藩から1年間の修業が許され、9月に江戸に到着し、大石弥太郎・龍馬と親戚で土佐勤王党を結成した武市半平太らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿しています。二度目の江戸遊学では桶町千葉道場とともに玄武館でも一時期修行しています。

 

 安政4年(1857年)に藩に一年の修行延長を願い出て許されました。同年8月、盗みを働き切腹沙汰となった従兄弟同士にあたり、のちに日本ハリストス正教会の最初の日本人司祭になる山本琢磨を逃がします。安政5年(1858年)1月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられます。

 北辰一刀流免許皆伝と言われることもありますが、発見・現存している目録は「北辰一刀流長刀兵法目録」を与えられたものです。一般にいう剣術ではなく薙刀術であり、北辰一刀流「初目録」です。ただ、「免許皆伝を伝授された」と同時代の人物の話もありました。 同年9月に土佐へ帰国しました。

・・・中略・・・

 黒船来航から明治維新迄の15年間は、まさしく日本中がひっくり返る程の大騒ぎとなりました。

 それ迄の250年間に起こった様々な大事件を全てひっくるめても、この時代に起こった大事件の総数には及ばないのではないかと思える程です。(中略)

 

 江戸時代においては政治の表舞台に全く登場しなかった天皇ですが、祭祀を司るだけの存在ではなかった事が明らかになります。

 海の向こうから夷狄(イテキ)があらわれ、日本が未曾有の危機を迎えた時、将軍や幕閣を含め、多くの人が天皇こそ、日本と日本人の精神的な柱である事に気付いたのです。

 維新の動乱は正にその天皇をめぐって大きく動いていきます。

 この時代、討幕派も佐幕派も、日本を国難から救おうと真剣に考えていました。

◾️櫻田門外

 日米修好通商条約が締結された1カ月後、将軍家定が34歳で亡くなり、家定の養子で12歳の家茂が第14代将軍となりました。

 

 家定には子がいなかった為、幕府内では世継ぎ問題が起こっていました。

 (中略)

 幕府改革派では、一橋慶喜(ヒトツバシ・ヨシノブ)を推しましたが、大老の井伊直弼(イイ・ナオスケ)等幕府保守派(南紀州)が推す紀伊徳川家当主の家茂が継嗣となります。

 家茂は、将軍となったものの、国政の実権は引き続き大老の井伊直弼が握っていました。

 孝明天皇は、『朝廷の勅使を得ずに日米修好通商条約を締結した事は許せん』、或いは『幕府は攘夷を推進する為に改革をすべし』と言う内容の詔勅を水戸藩に下しました。(中略)

 

 安政7年(1860)3月、水戸藩を脱藩した17人と薩摩藩士が彦根藩邸から江戸城に向かう井伊直弼の行列を襲撃する事件が勃発しました。櫻田門外の変と呼ばれるこのテロ殺傷事件で井伊直弼は頃されました。

 

 話は変わりますが、改めて幕末には切っても切れない偉人、坂本龍馬について考察してみます・・・

 

坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日〈1836年1月3日〉生まれ - 慶応3年11月15日〈1867年12月10日〉)は、日本の幕末の土佐藩士、通称は龍馬。他に才谷 梅太郎(さいたに うめたろう)などの変名があります。

 

■概略

 土佐藩郷士の家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(のちの海援隊)を結成しました。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与しました。大政奉還成立後の慶応3年11月15日(1867年12月10日)に京都河原町通蛸薬師下ルの近江屋において暗殺されました。実行犯については今井信郎による自供から、京都見廻組によるものという説が有力ですが、異説もあります。

 

■来歴

・幼少年期

 高知市の生誕地

 龍馬は天保6年11月15日(1836年1月3日)、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現・高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(下級武士・足軽)坂本家に父・坂本直足(八平)、母・幸の間の二男として生まれました。22歳年上の兄(権平)と3人の姉(千鶴、栄、乙女)がいました。坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、第六代・直益のときに長男・直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興しました。土佐藩の武士階級には上士と下士があり、商家出身の坂本家は下士(郷士)でしたが(坂本家は福岡家に仕えていたという)、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭でした。

 

 龍馬の父・坂本直足は婿養子として坂本家を継いだ人物で、実祖父の山本家(山本信固)や、その弟・宮地信貞(宮地家を相続)は共に白札郷士であり、龍馬は血統上は上士の人物です。

 

 幼少時は泣き虫で弱虫のひ弱な少年でした。実母の幸を10歳の時に病気で亡くす。以後、姉の乙女が母代わりに龍馬を教育します。12歳まで夜尿が直りませんでしたが、乙女が夜中に厠(カワヤ)に起こして連れて行き克服させました。乙女は身長176cm、体重110kgを超える当時としては尋常ならざる体躯を持ち、剣術にも秀でていた為、龍馬の剣術師範も務めたと伝説的に語られます。龍馬は終生、乙女への感謝と恋慕を失わず、現存する龍馬直筆の乙女宛の手紙は16通残っています。

 

・江戸遊学

 武術で小栗流目録を得た嘉永6年(1853年)、龍馬は武術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許されました。出立(シュッタツ)に際して、龍馬は父・八平から『修業中心得大意』を授けられ、溝淵広之丞とともに土佐を出立しました。4月頃に江戸に到着し、築地の中屋敷(または鍛冶橋の土佐藩上屋敷)に寄宿し、北辰一刀流の桶町千葉道場(現・東京都中央区)の門人となります。道場主の千葉定吉は北辰一刀流創始者千葉周作の弟で、その道場は「小桶町千葉」として知られており、道場には定吉のほかに長男・重太郎と3人の娘(そのうち一人は龍馬の婚約者と言われるさな子)がいました。小千葉道場は千葉周作の「玄武館」(大千葉)と同じ場所に存在しましたが、身分制度が厳しかったために上級武士は玄武館の所属、下級武士は小千葉道場所属とはっきり分かれており、ともに稽古をすることもありませんでした。のちに小千葉道場は桶町に建てられた道場に移転しますが、そこでも館名がないのはこのためでした。ただし、『汗血千里駒』では坂本龍馬は千葉周作の門人としています。嘉永6年当時の桶町には千葉定吉の道場が建てられていなかったことから、二度目の遊学時に桶町千葉道場の門下になったのではという説もあります。土佐ではそもそも下士は捕手術のような体術の修行が主体で刀による剣術の修行は許されなかったとも言われていて、坂本龍馬の江戸行きは別の理由で申請され、剣術修業は後に勝海舟の学習塾で塾頭を務めるまでになった実績が評価された異例の扱いであった可能性もある。兵学は窪田清音の門下生である若山勿堂から山鹿流を習得しています。

 

■土佐勤王党

 土佐藩では、江戸幕府からの黒船問題に関する各藩への諮問を機に藩主の山内豊信(容堂)が吉田東洋を参政に起用して、意欲的な藩政改革に取り組んでいました。また、容堂は水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らとともに将軍継嗣問題では一橋慶喜を推戴して幕政改革をも企図していました。しかし、安政5年(1858年)4月に井伊直弼が幕府大老に就任すると、幕府は一橋派を退けて徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に定め、開国を強行して反対派の弾圧に乗り出しました(安政の大獄)。一橋派の容堂も安政6年(1859年)2月に家督を養子・山内豊範に譲り、隠居を余儀なくされます。隠居謹慎したものの藩政の実権は容堂にあり、吉田東洋を中心とした藩政改革は着々と進められました。

 

 安政7年(1860年)3月3日、井伊直弼が江戸城へ登城途中の桜田門外で水戸脱藩浪士らの襲撃を受けて暗殺される(桜田門外の変)。事件が土佐に伝わると、下士の間で議論が沸き起こり尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となりました。

 

 同年7月、龍馬の朋友であり、親戚でもある武市半平太が、武者修行のために門人の岡田以蔵、久松喜代馬、島村外内らとともに土佐を出立しました。龍馬は「今日の時勢に武者修行でもあるまい」と笑いましたが、実際は西国諸藩を巡って時勢を視察することが目的でした。一行はまず讃岐丸亀藩に入り、備前、美作、備中、備後、安芸、長州などを経て九州に入り、途中で龍馬の外甥の高松太郎と合流しました。

 

 文久元年(1861年)3月、土佐で井口村刃傷事件(永福寺事件)が起こり、下士と上士の間で対立が深まりました。『維新土佐勤王史』にはこの事件について「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」とある。なお、事件の当事者で切腹した池田虎之進の介錯を龍馬が行って、その血に刀の下緒を浸しながら下士の団結を誓ったという逸話が流布しましたが、これは坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』のフィクションです。 

 

 同年4月、武市半平太は江戸に上り、水戸・長州・薩摩などの諸藩の藩士と交流を持ちました。土佐藩の勤王運動が諸藩に後れを取っていることを了解し、武市は長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円と各藩へ帰国して藩内同志の結集を試み、藩論をまとめ、これをもって各藩の力で朝廷の権威を強化し、朝廷を助けて幕府に対抗することで盟約を交わしました。これにより同年8月、武市は江戸で密かに少数の同志とともに「土佐勤王党」を結成し、盟曰(めいえつ)を決めました。

 

 武市は土佐に戻って192人の同志を募り、龍馬は9番目、国元では筆頭として加盟します。武市が勤王党を結成した目的は、これを藩内勢力となして、藩の政策(主に老公山内容堂の意向)に影響を与え、尊王攘夷の方向へ導くことにありました。

 

 勤王党結成以来、武市は藩内に薩長二藩の情勢について説明をするのみならず、土佐もこれに続いて尊王運動の助力となるべきと主張します。しかし、参政吉田東洋をはじめとした当時の藩政府は「公武合体」が藩論の主要な方針であり、勤王党の尊王攘夷の主張は藩内の支持を得ることができませんでした。

 

To Be Continue 

 乱筆乱文駄文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 

 

出典:You Tube、wikipedia、新版日本国紀(百田尚樹著)外