making of America2 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

 Long Time Ago・・

長い間、現実は歪められ、

情報は操作されて来た・・

Han-nichi is Never Over⁉️

・・The XX Files 20th.

   Please Don't Korea❗️

 Fake Nation's China

   True ・・真実は動き始めた

 Future Generation !

真実と闘え・・・

This is a Fact

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   Sub Title "Around The World Han_nichi_Labo_Station"

 Sumer-Japanese Suite Lounge.

FunnyBomb.

 


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ピューリタン源流ヘンリー8

 

 ピューリタン(Puritan:清教徒)の源流は、イングランド王で後のアイルランド王でもあるヘンリー8世にあります。

 1534年(天文3年)、ヘンリー8世は宗教改革を断行し、スペインから嫁いだキャサリン王妃と離婚する為、離婚を禁じるカトリック教会から離脱する必要がありました。

 それは、欧州を支配する中世キリスト教世界、ローマ教皇からの独立を視野に入れ、カトリック教会が独占していた富と権力を手に入れると言う目論見も含まれていました。

 ヘンリー8世は、最終的に5回離婚再婚を繰り返しています。

 

 しかし、ルターが始めた宗教改革の混乱の中、ルターの様にキリスト教信仰から来る純粋な動機ではなく、カトリックの信仰内容や教会の儀式等の制度的な事には手を加えず、ただ英国にある教皇の支配権を否定して自らが英国教会の責任者となり、修道院を没収すると言う政治経済分野での変革であり、宗教改革とは一線を画すものでした。

 ヘンリー8世の死後、エドワード6世が政治を継承し、メアリー1世が王位を引き継ぎました。

 メアリーは、ヘンリー8世の最初の妻キャサリンの娘でカトリックでした。

 メアリーは、英国カトリック教会をローマ・カトリック教会に戻し、プロテスタントを徹底的に弾圧しました。

 この弾圧から逃れて800人程のプロテスタントが欧州に亡命し、事にジュネーブに逃げた一団はカルバン主義の強い影響を受けました。

 それがピューリタンの始まりでした。

 ヘンリー8世の2人目の妻の娘、エリザベス1世は即位すると直ちに父の首長法を復活させ、自ら英国教会の長となりました。

 亡命していたプロテスタントは英国に戻ってきましたが、英国教会に残るカトリック的要素を一掃して、カルバン主義による教会改革を推進しようとしました。

 彼等が名実共にピューリタンとなっていきます。

 スコットランドは、カルバン主義による宗教改革の先進地で、ピューリタン達は期待しました。

 彼等の期待は、千人誓願(ピューリタンによる会議の要請)が認められると最高潮に達しましたが、1604年(慶長9年)、ハンプトンコート宮殿会議で英国教会の主流派により巻き返しを喰らい、彼等ピューリタンの要請は一蹴されました。

 ハンプトンコート会議の後、ピューリタンへの弾圧が強化されました。

 弾圧の中で、ピューリタンは穏健派と急進派に分裂します。

 メイフラワー号に乗ったピューリタンは、元々スクルービーと言う信者の集団でした。

 この集団の指導的立場にいた牧師、ジョン・ロビンソンは、ピューリタン運動に身を捧げた人物で弾圧により追放された一人でした。

 彼の様な追放された牧師達は、宣教も集団で集まる事も禁止されていた為、常に拘束される危険と隣り合わせでした。

 彼等は、集団で故郷を捨てる事にしました。

 1608年(慶長13年)、彼等はまずオランダ(NetherLand)へ脱出します。

 この脱出が米国建国の第一歩となりました。

 当時、Puritanにとって、オランダは欧州で唯一の自由の国でした。

 オランダは、1581年(天正9年)にカトリック大国スペインから独立してプロテスタントの信仰の自由を保障していました。

 このプロテスタントの楽園オランダに、母国からの迫害から逃れて到着する亡命者(エミグレ)が溢れ返りました。

 

欧州から持ち込まれた伝染病の衝撃

 欧州人(ヨーロッパ人)は、植民地に多くの病原菌を持ち込みました。

 欧州人と彼等の家畜が運んできた病原菌は、アメリカ大陸で猛威を振るい、戦争以上の死者をインディアンにもたらしました。

 天然痘、ペスト、はしか、インフルエンザ、百日咳、コレラ、マラリア、黄熱病、ジフテリアなどです。

 死者の数は、場所によっては100%に至るところもありました。

 イスパニューラ島では、800万人いた先住民の人口が1535迄にほぼゼロになりました。

 メキシコでは、1519年(永生16年:室町時代)2500万人いた先住民人口が、1599年(慶長4年)には150万人になりました。

 天然痘の様な伝染病がインディアン集落を襲うと、あっという間にコミュニティは全滅しました。

 天然痘に罹患したインディアン達は高熱で寝たきりになり、ジクジクした水泡で体中を覆われました。

 髪の毛は抜け落ち、ジクジクした肌は寝ついている接触面にくっついて、剥がれ落ち、喉は燃える様に乾きました。

 天然痘は、村から村へ広がっていきました。

 こうして壊滅したインディアン村落に、欧州人は後からやって来て、人が居なくなった土地を新たな植民地に編入する事を容易にしました。

 この伝染病蔓延による先住民の壊滅を欧州人達は、「清掃と植民」に重ね合わせて「神は病原菌を遣わして、土地を空けてくれたのだ」などと都合の良い解釈をしていました。

 

ピューリタンの不寛容とNetherland

 英国、主にスコットランド周辺からカトリックの迫害から免れて亡命していたピューリタン達は、オランダからいったん英国に戻り、食糧、飲料、衣料、鍬(クワ)、鋤(スキ)、鎌等の必需品を持ち、メイフラワー号に乗船し新天地北米に船出しました。

 メイフラワー号の乗船者は102名でしたが、その内ピューリタンは僅か41名でした。

 彼等ピューリタンは、自らをSaints(清教徒)と呼び、自分達以外の乗員をStrangers(よそ者)と呼びました。

 このメイフラワー号に乗船した約40名のセインツの内、実質大人の男17人が中心となってニューイングランド※に、ピューリタニズムに則った「神の国」の建設を始める事になります。

 米国北東部のエリアを指して言い、具体的にメイン州、ニューハンプシャー州、バーモント州、マサチューセッツ州、ロードアイランド州、コネチカット州を言う。

 1620年(元和6年)11、メイフラワー号はニューイングランド沖に到着しましたが、すぐには下船せずに、船上でこれから自分達が何をすべきか明確に文字に書き出して、ピューリタン社会の建設を誓約しました。

 これは、一つの契約書であり、バラバラの個人が団体を創設する事を誓った近代的社会契約説に基く宣言書の様なものです。

 実は、この誓約書は後の米国独立宣言にも繋がっていきます。

 次の様な内容です。

 「・・我らの統治者たる君主、神意により英国、仏国、及びアイルランドの王にして、又、信仰の擁護者たるジェームズ陛下の忠誠なる我ら下記の者達は、神の栄光の為、キリストの信仰の増進のため、・・バージニアの北部地方における最初の植民地を創設する為航海を企てた者達であるが、ここに本証書により、厳粛かつ相互に契約し、神と我ら相互の前で、契約により結合して政治団体を作り、以てより完全な秩序と安全を保ち進め、上掲の目的を遂行する。そして、今後はこれに基づき植民地の幸福の為、最も適当と認められるところにより、随時正義公平な法律、命令を発し、憲法を制定し、また公職を組織すべく我らは全てこれらに対して当然の服従をすべき事を契約する。・・・

 

 約40名のピューリタン達は、この誓約書に署名しました。

 彼等は、最初にプリマス植民地(Plymouth Colony)を現在のマサチューセッツ州に建設しましたが、その中心地となったのは、集会所(ミーティング・ハウス)で、植民地建設の重要事項は全てこの集会所で議論され実行に移されました。

 彼等ピューリタン、特にセインツ達は、燃えさかる信仰心に支えられ、弾圧や追放など幾多の困難を乗り越え新天地に到着したのです。

 しかし、彼等が盲目的な信仰心故に独善的となり、正義公平とは言えない法を作った可能性も否定する事はできません。

 実際、彼等ピューリタン達の独善性と不寛容さは、その後の植民地経営にも現れます。

 ピューリタンは、厳しく自己を律する人々でしたが、同時に彼等の信仰心に反する者達を厳しく断罪しました。

 又、その断罪は自分達がなすべき当然の権利だと考えていました。

 ピューリタニズムに骨格を与えたカルバン主義には、予定調和説があり、「誰が救われるかは予め神によって決められている。」、ピューリタン達は「私達が神に選ばれし者だ」と言う自負がありました。

 ピューリタン達は、自分達が植民地で指導的役割を果たさなければならないと考えていました。

 セイントになるには、回心(conversionが必要となります。

 回心は、宗派により定義が様々ですが、ピューリタンにおける回心とは、信者の面前で回心した事を告白する儀式的要素を含みます。

 言うなれば、俗世での自らの行いを悔い改め、懺悔し、神と直接繋がり神の恩寵によって救われ生まれ変わる体験の様なものです。

 回心は、性別年齢を問わず受けられる様ですが、その機会は1度きりに限られています。

 その回心経験を経て、セイントになったピューリタンは、聖書に基づき一生敬虔な生活を送らなければなりません。

 聖書を全ての規範(モラル)とする聖書主義もカルバン主義の基本原理です。

 マサチューセッツ湾岸植民地では、セイントだけが選挙権や役人になる権利、つまり政治に関わる事を認められていました。

 1643年(寛永20年)での植民地人口の凡そ15,000人のうち約10%、僅か1700人程がセイントで、彼等はまさしく選ばれし選民でした。

 この1割の限られた選民が神の統治による政治、神政政治を断行し聖書主義に違反した者達は容赦なく罰を受けました。

 

 同じピューリタンでも、罰を受けた者の中にロジャー・ウィリアムズがおり、彼は牧師でしたが、一部のセインツが宗教を統制し、個人の信仰や良心に介入する事は間違いであると考えていました。

 インディアンと親交を深め、植民地は元々先住民のものであり、彼等から譲り受けたものだと主張しました。

 彼はマサチューセッツから追放され、後のロードアイランド州となる場所にプロビデンスと言う町を作りました。

 姦通、同性愛、売春、強姦、獣姦等それらに類する行為は性犯罪として厳しく罰せられ、その罪を犯した者は共同社会から追放され、重罪と裁定された者は処刑されました。

 

 To Be Continue

 

出典:メイキング・オブ・アメリカ(阿部珠理著)、アメリカの歴史3(南北戦争から20世紀へ)メアリー・ベス・ノートン他著、本田創造監修

 

乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 

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