making of America | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

Long Time Ago・・

 長い間、現実は歪められ、

情報は操作されて来た・・

Han-nichi is Never Over⁉️

・・The XX Files 20th.

   Please Don't Korea❗️

 Fake Nation's China

   True ・・真実は動き始めた

 Future Generation !

真実と闘え・・・

This is a Fact

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   Sub Title "Han_nichi_Labo_Station"

 Sumer-Japanese Suite Lounge.

FunnyBomb.

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1章:北米先住民受難

■Indianの嫌な予感

 米国では、10月の第2月曜日を「コロンブス・デー(Columbus Day」として祝います。

 Columbus Day・・・。

 米国民の多くが、1492年(明応元年:室町時代末期)のコロンブスのアメリカ大陸発見が、米国の端緒を開いたと考えているからです。

 Columbus Dayは、1971年(昭和46年)に米国の公式な祝日となり、翌年の10月、母国人コロンブスを誇りとするイタリア系移民が、ニューヨークで大規模なパレードを実施して以来、この日は毎年米国各地で大規模な祝祭イベントが開催されています。

 しかし、カリフォルニア、サウスダコタ、フロリダ等、インディアン人口の多い州では、例年この日にインディアン達が抗議運動を展開します。

 1968年(昭和43年)、ミネソタ州ミネアポリスで結成されたAIM(アメリカン・インディアン・ムーヴメント)は、70年代の先住民の権利回復運動を牽引した組織ですが、そのリーダーの一人、ラッセル・ミーンズがこの日の挨拶で先住民の気持ちを述べました。

 「コロンブス・デーを祝う事は、インディアンに対して過去に行われた圧迫と、残忍な暴力による恐ろしい征服を許容する事に他ならない」。

 ラッセル・ミーンズと言う人物は、俳優としてハリウッド映画「ラスト・オブ・モヒカン」に出演し、アニメの声優としての活動もあり、撮影現場でのインディアン・エキストラの待遇改善を訴えた人でもありました。

 後にガンに侵されましたが、一切の西洋医学を拒絶しサウスダコタ州の故郷、ラコタ・スー族保留地に戻り、2012年(平成24年)他界しています。

 ミーンズは、米国先住民・インディアンの諸部族、スー族の出身だったのです。

 コロンブスがアメリカ大陸到達時、500万人〜1000万人と言われた北米の先住民人口は、400年後の1890年(明治23年)には、約25万人になっていました。

 コロンブスの新大陸(アメリカ大陸)発見は、先住民インディアンから見れば、忌わしい受難の時代の幕開けに他なりませんでした。

 

 

 

 

大航海時代と言うロマン

 15世紀から17世紀は、大航海時代と呼ばれますが、欧州(ヨーロッパ)にとっての大航海時代は「新世界」発見の時代でもあり、コロンブス、バスコ・ダ・ガマ、マゼラン、ヴェス・プッチ、カルチェと言った探検家達が、次々と船出し、新世界、新航路を開拓しました。

 コロンブスは、現在のバハマ諸島のサンサルバドルに着岸し、浜辺に足跡をつけると地面に接吻し、十字架を立ててその地の領有を宣言しました。

 これは発見者の権利を履行する行動でした。

 その土地には、当然太古から暮らす先住民がいましたが、探検家達は発見者の権利として、先住民を文明の遅滞した異教徒と言うレッテル貼りして排除する事を正当化します。

 この行為は、欧州社会の通例で、インディアン達が公証印付きの権利証を持っていなかった事も、その理由に付け加えられました。

 大航海時代と言う呼称は、未知の大陸を目指して大海原に船出する航海者の夢とロマン、勇気を想起させます。

 しかし、現実は先住民の土地と生命の犠牲の上に、欧州列強が新たな植民地と市場の開拓を進める近代植民地主義の始まりの時代に他なりませんでした。

 

列強のアメリカ大陸植民地への入植

 1492年(明応元年)、欧州(ヨーロッパ)にコロンブスの発見のニュース(News)がもたらされると、(当時の)欧州の最大勢力、スペインとポルトガルは、カトリック教会と教皇に訴えました。

 1493年(明応2年)、教皇はインタルカエテラと言われる教皇勅書を公布してアメリカ大陸におけるスペインの行動に法的権威を与え、発見された土地は、全てスペインの土地に帰属する事が保証されます。

 教皇とスペインは、アメリカ大陸と言う土地を植民地化し、そこに住む先住民をカトリックに改宗する事は、キリスト教の拡大のチャンス或いは使命だと捉えていました。

 しかし、ポルトガルはスペインの何十年も前から新大陸、新世界の発見、事にアフリカの西海岸の探検を始めていました。

 ライバル関係にあったスペイン・ポルトガル両国の主張は、1494年(明応3年)、トルデシリャス条約で決着しました。

 スペインとポルトガルは、欧州外で発見された土地を分け合う事。

 ポルトガルは、ブラジルとアフリカを、スペインはその他の新世界を領有する事になります。

 スペイン人は、特に中南米からの富の掠奪に際して先住民を労働力に使用しました。

 イスパニューラ島では、スペイン人に酷使された先住民が何千人も死にましたが、当初の目的であるキリスト教の布教活動は何も行われていませんでした。

 そうした暴力行為の反省から、1512年(永生9年)にブルゴス法を定めて、エンコミエンダ制度が成立しました。

 インディアンを奴隷にする事は違法とされ、虐待する事も禁じられました。

 しかし、その後もスペイン人は、自分が所有する土地に先住民を住まわせ、スペイン人主人の為に強制労働、事に鉱山労働や牧畜、農耕、その他諸々の仕事を強制した為、エンコミエンダ制度は、結局奴隷制と何ら変わりありませんでした。

 彼等スペインにとっての北米・植民地化は、中南米程に上手くはいきませんでした。

 スペインは、1560年(永禄3年)代にカリフォルニア、1565年(永禄8年)フロリダのセントオーガスティンに植民地を設立しました。

 セントオーガスティンは、中央アメリカからの金銀財宝を載せてスペインに帰る船の航路を保護し、スペインの権益を守る為の軍の駐屯地の性格が強い場所でした。

 仏国との競合も激しく、植民地の拡大は抑えられ、1819年(文政2年:幕末)には新たに誕生したアメリカ合衆国(USA)にフロリダを割譲し、メキシコ独立によりカリフォルニアや南東部を失い、北米におけるスペインの植民地事業は終焉しました。

 一方、南東部でスペインと競合した仏国は、カナダと現合衆国東北部で権益を拡大していました。

 仏国人は、先住民との毛皮交易を主眼としてセントローレンス湾から川と湖水を通路に、17世紀には五大湖からニューオリンズ迄ミシシッピ川に沿って点々と交易所を設置しました。

 仏国は、交易拠点の建設と交易路の確保拡大に重点を置き、点と線の植民地経営を展開していたのです。

 交易所の連なりは、英国植民地を取り巻き、原理的には彼等英国の植民地拡大を押さえ込む形となりました。

 この交易所の点と線は、実質英国包囲網の機能を果たしていましたが、交易関係を維持していたインディアンの同盟者のお陰で成り立っていました。

 仏国は、しばしば植民地勢力の中で最も先住民と友好的だったと評価されますが、北米における植民地経営を保つには、実際問題インディアン諸部族と如何に上手くやって行くかにかかっていました。

 五大湖では、仏国は巧みに諸部族同士の敵対関係を利用します。

 主な諸部族はイロコイ族ヒューロン族アルゴンキン・インディアンでしたが、仏国はアルゴンキンを支援して、オランダと同盟を結ぶイロコイ族Hollywood女優アンジーの祖先)と戦う為、彼等の欲しがる銃器をビーバーの毛皮と交易し利益を上げると同時に、彼等同盟者の勢力の上で植民地の安定を図っていました。

 仏国とインディアンの友好は、交易を中心とするものでしたが、南部で仏国が農業植民地の経営を目指し先住民の土地を掠奪し始めた時、仏国人の仕打ちは、スペイン流の暴虐と何ら変わらない残酷なものとなっていました。

 ミシシッピ農耕文化の担い手だったナッチェズ族は、仏国の先住民撲滅政策の前に18世紀のうちに絶滅しました。

 東部でオランダ勢力との競争に勝利した英国は、北米で恒久的な植民地建設に成功しました。

 英国の植民地は、1607年(慶長12年:安土桃山時代)のバージニアのジェームズタウン植民地Jamestown:現在のバージニア州ジェームズシティ郡)が最初です。

 後に英国植民地における最初の黒人奴隷の労働者が投入される場所となります。

 

 英国の植民地建設パターンは、他と異なり、スペインや仏国で、国王が植民地政策の予算を握っていたのに対し、英国では議会が財布の紐を握っていました。

 又、英国では毛織物工業の発達に伴って牧草地が拡大された為、土地を追われた農民は、新たな植民地に移されました。

 彼等に煙草や砂糖など利潤の高い農産物を生産させ、農業植民地の成功を目指しました。

 そこで展開されたのは、先住民を土地から根こそぎ追い払い(clear=清掃)、そこに労働力を移植する(plant=植民)、クリアランス・アンド・プランテーション政策(clearance And plantation)でした。

 クリアランス・アンド・プランテーション政策は、じわじわと水が浸透していく様に、真綿で首を絞める様にインディアンの生存権を侵して行きました。

 

 To Be Continue

 

乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 

 

出典:メイキング・オブ・アメリカ(阿部珠理著)、アメリカの歴史3(南北戦争から20世紀へ)メアリー・ベス・ノートン他著、本田創造監修