流転の戦後日本16 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・The XX Files 20th.

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This is a Fact

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   Sub Title "The beyond Tomorrow"

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政界進出前角榮

 田中角榮は、雪深い新潟の出身で、父は角治と言い牛馬商を営みましたが、事業投資の最中に病死した為、幼少時代は極貧生活だったそうです。

 姉2人、妹4人で男は角榮1人と言う母子家庭に育ちました。

 勤勉で朝は早起き、人の3倍は働くと自負する努力家で、酒が強かったそうです。

 角榮には、従軍経験があり、昭和13年(193820歳で徴兵に応じ北満洲で軍隊生活を送りました。

 女優の写真を懐に持っていたのを上官に見つかり殴られた事があるそうです。

 その上官が、戦後復員して、後に越山会の会長となり、長年に亘って角榮を支えるのですから運命とは皮肉なものだと思います。

 角榮は、あのノモンハン事件にも従軍し、ノモンハンの数少ない生き残りでした。

 ww2にも出征しましたが、昭和16年(19412に肺炎の為、内地送還され入院。病状は思わしくなく死線をさまよったそうです。

 10月になって、退院し田中建築事務所を開き社長になりました。

 真珠湾攻撃の2ヶ月前の事です。

 角榮23歳の時、理化学研究所との取引を復活させ、田中土建工業(株)を設立しました。

 角榮の社長ぶりは、「社員と一緒に資材を運んだり、徹夜で設計したりしていた。ヤミ酒を車座になって社員と一緒に飲んだ。分け隔てのない経営者だったから、社員は兄貴と慕いついていった」と言う証言があります。

 日本軍関係の工事も請け負い、田中土建は急成長を遂げると、理研から請け負った工事で韓国に渡航し、工事着手したところで終戦を迎えたそうです。

 帰国して田中建築のあった飯田橋に戻ると、奇跡的に事務所や自宅は無傷のまま残っていました。

 その時、角榮は「それもこれも神様の思し召しと思い、世の為人の為に、私の成し得る何かをしなければならない、そう激しく感じた。その思いが政界への進出に繋がった」と後にマスコミから越山会の女王と呼ばれる"佐藤昭子"平成22年(20103死去)に語ったそうです。

 角榮にとって、越山会の女王・佐藤は、言えば政界初出馬からの戦友であり、縁の下の力持ちでもあり、歯に衣着せぬ物を言う間柄でした。

 佐藤は、後に角榮の秘書も務める様になり、他の秘書には話さない事も佐藤には話していた様です。

 戦後の田中土建は、理研やGHQの工事を請け負っていたと言います。

 角榮は「俺の全ての知識の土台は理研から教わった。日本のあるべき姿とは何か、その為に何が必要か、どんな研究が必要か。理研は俺にとっての大学だった」と。

 角榮は、尋常高等小学校卒でした。

 今で言う中学校卒です。

 

闇将軍と呼んだマスコミとの関係

 角榮と言えば、「まーそのぉ」と言うあの独特なダミ声と迫力のある、それでいて説得力も備えた演説の上手さがあります。

 機関銃の様に次から次へと言葉が飛び出し、そして政策の話を切り出し、最後は納得させ幕を閉じる。

 そんな角榮ですが、意外にも学生時代は吃音(キツオン。昔で言うドモリ)持ちで、とても何かを大勢の前で発表したりできる人ではなかったと言います。

 総理になった僅か2年後、昭和49年(197411に文藝春秋の連載記事「田中角榮研究〜その金脈と人脈」が出されてからはマスコミから集中砲火を浴び、悪口が書かれていない日はありませんでしたが、角榮は番記者との付き合いは大切にしていました。

 夜回りの記者とも公平に付き合ったそうです。

 闇将軍と呼ばれ、バッシングが酷い時でも角榮の番記者は誰一人として悪口を言うどころか、皆、オヤジさんと慕い身内同然の付き合いをしていました。

 

角榮食生活

 角榮の食の好みは越後の田舎料理でした。

 シャケに目がなかったそうですが、新潟のシャケは塩焼きが主流で、佐藤が、シャケをオカズに弁当を出すと「ああ、うまいな」と喜んで食べたといいます。

 佐藤は、角榮の為に、よく自宅で鮭を昆布巻きにして煮付けにした料理を出し、角榮は喜んで鮭の煮付けを食べました。

 珍しい事に、高級魚の鯛やカツオのタタキ等は好まなかったそうです。

 田中事務所には、若手議員がこぞって出入りしていました。

 関西の議員は、薄口が好みなので「オヤジさんの食べ物は塩気が強すぎる。醤油やソースをぶっかけるのは辞めて下さい」と言われ、角榮は「そんな、甘っちょろいもの食べられるか」とよく言っていたそうです。

 

総理大臣・角榮の女の噂

 政治家になる前迄は、神楽坂辺りでよく遊んでいたらしく、秘書の早坂茂三が自著で「オヤジは金も好きだったが、女も好きだった」と書きました。

 国会議員ともなれば、誰でもマスコミのスキャンダルの標的になりますが、角榮は浮気性ではなかったと言います。

 特に政界に入ってからは、慌ただしく忙殺される日々だった為、愛人を作っている暇などなかったらしく、それでも佐藤には「俺の昔の女が出てきたら、きちんと整理してくれよ」と何のてらいもなく言い放ったと言います。

 角榮は、「責任回避」が大嫌いでした。

 ですから、「自分は角榮の女だった」と言い現れる女性達には徹底して面倒を見たといいます。

 ただ、実際問題、角榮には隠し子と愛人が存在したそうです。

 その中の一人に越山会の女王も名を連ねた様です。

 角榮の葬儀に、佐藤は参列出来ませんでした。正妻・はな氏の娘、田中眞紀子が嫌がったからです。

 越山会の女王佐藤は、田中派の派閥に絶大な影響力を持ち、後の総理、橋本龍太郎や小沢一郎等から姉貴と言われ慕われたと言います。

 田中土建時代は、大酒飲みでしたが角榮のモットーは「酒は飲んでも呑まれるな」でした。

 BeerDislikeWhisky、それもOld Parr(オールドパー)が好みだったと言います。

 しかし、水割りは嫌いでロックしか呑みませんでした。

 ただ酒は大嫌いでした。

 ロックのウイスキーと塩分濃度の高い食事。

 それが、ロッキード事件後に発症した脳梗塞の原因とも指摘されます。

 

14回日本レコード大賞

 昭和47年(19721231開催。

 受賞曲は、ちあきなおみの「喝采」。

 最優秀新人賞は、麻丘めぐみの「芽ばえ」。

 

三菱系炭鉱閉山

 昭和48年(1973、それまで燃料の主力とされていた石炭が石油へのエネルギー政策転換に伴い、次々と炭鉱が閉山します。

 炭鉱、石炭の需要は、世界的には、18世紀に英国を主とする先進国の産業革命と同時に増加の一途を辿りました。

 日本での石炭の需要は、江戸時代から始まったそうですが、その頃は薪の代用という程度でした。

 ご存知の産業革命による石炭利用は、蒸気機関への転用が主なもので、黒船、機関車への利用でした。

 明治維新後、欧米列強に対抗すべく、富国強兵をスローガンにした日本も、蒸気機関を得て、欧米同様の船や機関車を利用する為、炭鉱採掘が本格化しました。

 戦前、戦中、石炭は「黒いダイヤ」と言われる程、貨幣価値があり、炭鉱町は経済的に潤い、活気に満ち、炭鉱マンは一獲千金を狙う民衆の花形職業でしたから、町には一旗上げようとした人々が続々と集まってきました。

 朝鮮人もそれら群衆の一角を占めていました。

 徴用工が皆無とは言いませんが、何10万人もの朝鮮人が強制連行され、炭鉱で奴隷労働を強いられたなどという戯れ言は、ハングル世代の若いKoreanと韓国の国定教科書にしか存在しない幻に過ぎません。

 戦後日本の炭鉱町は、炭鉱を核として都市基盤が形成されていた為、閉山後の旧産炭地は、衰退の一途を辿り、徐々に過疎化が進行していく事になります。

 

第1次オイルショック

 昭和48年(197310

 OPEC石油輸出国機構加盟国のイラン、イラク、サウジアラビア等6ヵ国が原油価格を一気に70%値上げ。

 更に、翌年の昭和491127%値上げ。

 原因は、昭和48に開戦した第4次中東戦争(イスラエル、米国vsアラブ諸国(エジプト、シリア、イラク、ヨルダン))で、イスラエルを支援する国に対し、石油輸出制限措置が断行された為です。

 第4次中東戦争の主な要因は、イスラエル軍が、パレスチナに住むアラブ人を抑圧していた事に端を発しています。

 日本は、直接的にイスラエルを支援する国ではありませんでしたが、米国の同盟国だった為、石油禁輸リストに入っていました。

 外交努力で、ようやく禁輸リストからは除外されましたが、その余波は続きました。

 公共事業は軒並み延期され、石油製品の生産減少、節電、デパートのエスカレーターの運行中止、民放テレビの深夜放送中止、トイレットペーパーの買い占め等々。

 この年を皮切りに、高度経済成長は終焉し、又、節電の経験から省エネ技術が飛躍的に向上した為、危機を脱出する事に成功しました。

 

15回日本レコード大賞

 昭和48年(19731231開催。

 受賞曲は、五木ひろしの「夜空」。

 最優秀新人賞は、桜田淳子の「わたしの青い鳥」。

 

ブルボン・ルマンド発売(昭和49年)

 (株)ブルボンは大正13年(1924設立。

 代表的商品に、ルマンドを昭和49年(1974発売、その他ブランチュール、アルフォート、味ごのみなどがあります。

 

セブンイレブン日本出店

 昭和49年(19745、日本に初めて出店された代表的コンビニエンスストア。

 当時のイトーヨーカ堂の子会社、ヨークセブンが、米国の本社から許可を取得して、日本に出店されました。

 後にヨークセブンは、セブンイレブン・ジャパンに社名変更します。

 平成3年(1991、業績不振となった米国本社をセブンイレブン・ジャパンが逆に買収し、米国生まれの大手コンビニチェーンは、日本が本社となりました。

 

巨人の長嶋茂雄現役引退

 昭和49年(19741014、ミスタージャイアンツ、ミスタープロ野球、チョーさん、燃える男等の愛称で親しまれた長嶋茂雄の引退試合が行われる。

 引退セレモニーでの有名な言葉となったのが「我が巨人軍は永久に不滅です」。

 昭和49のセ・リーグ優勝は、中日でした。中日にとっては20年ぶりの優勝でした。

 

16回日本レコード大賞

 昭和49年(19741231開催。

 受賞曲は、森進一の「襟裳岬」。

 大衆賞に、梓みちよの「二人でお酒を」と山口百恵の「ひと夏の経験」他。

 

■G7先進国首脳会議

 昭和50年(19751115、先進国首脳会議が行われました。

 G7は、日、米、仏、西独、英、イタリア、カナダの首脳が会談する国際会議で、Group of Sevenを略してG7

 当時は、カナダを除くG6だったそうで、第二回の会議からカナダが含まれる様になったそうです。

 が、G6開催前はイタリアも除いたG5で開催していますが、日本はG5の時から主要メンバーに選択されていました。

 幹事国は米国です。先進国の限られたグループに選ばれる事は光栄な事です。

 昔で言えば、一等国民と言う事ですから。 

 しかし、米国は何を考えているのか、UNの常任理事国ではない日独伊と手を組むと言うのですから、意味が分かりません。経済協力を得たいと言う下心しか感じられません。

 昭和50当時の米国大統領は、フォード大統領。日本の総理は、三木武夫でした。

 

ローソン1号店出店

 昭和50年(1975、当時のダイエーの子会社として、初めて出店された日本の大手コンビニ。ダイエーが経営破綻した後は、三菱が親会社となり、現在に至ります。

 

ニキ・ラウダ F1優勝

 ニキ・ラウダは、昭和24年(1949)年生のオーストリア人F1ドライバー。

 昭和50年(1975昭和52年(1977昭和59年(1984 F1グランプリ・ドライバーズチャンピオンに優勝しました。

 所属チームは、マーチ(英国)、BRM(英国)、フェラーリ(イタリア)、ブラバム(オーストラリア)、マクラーレン(英国)。

 アラン・プロストとは、何度も優勝を争うライバルでもありました。

 

17回日本レコード大賞

 昭和50年(19751231開催。

 受賞曲は、布施明の「シクラメンのかほり」。

 企画賞に、ダウンタウン・ブギウギ・バンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」。

 最優秀新人賞に、細川たかしの「心のこり」。

 

うどん蕎麦の平均価格

 昭和51年(1976230

 

 To Be Continue

 

 

 乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 

 

出典:vol.15参照