・・The XX Files 20th.
Please Don't Korea❗️
True ・・真実は動き始めた
Han-nichi is Never Over⁉️
This is a Fact
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
Sub Title "The beginning of history"
SumerJapanese Suite Lounge.
(FunnyBomb).
■3億円事件
昭和43年(1968)12月10日、東京の日本信託銀行から東芝社員のボーナス3億円を載せた現金輸送車が、白バイ警官に扮した人物によって、府中刑務所の裏路地に入った所で緊急停止させられる。
運転手が窓を開けると、白バイ警官の男は「貴方の銀行の巣鴨支店長宅が爆破され、この輸送車にもダイナマイトが仕掛けられているという連絡があったので調べさせてくれ」と言う。
白バイ警官の男が輸送車の車体下に潜り込み、爆発物を調べていると、車体下から白い煙が立ち始め、男が「爆発するぞ。逃げろ」と言った為、銀行員達が車両から避難。
白バイ警官は、現金輸送車に乗り、白バイを置いたまま走り出す。
銀行員達は、爆発から遠ざける為に輸送車を発進させたのだと思い「勇敢な警官だ」と感心したが不審には思わなかったと言う。
しかし、煙の発生源が路上に残された発煙筒からのもので、白バイも偽物だった事が分かって初めて現金を盗まれたと気づいたと言う事件。
時効成立により、迷宮入りとなった。
不思議な事に、誰も死傷者が出なかった為、強盗と言う定義に当てはまらず、東芝社員のボーナスも保険金により全額補てんされ、支給日にしっかり支払われている為、誰も損失を被った者はいなかったと言われます。
ただし、事件関係者のうち、報道被害で自殺者が出た事と、捜査による過労で死んだ警官を除いて。
捜査線上に上がった容疑者は、 なんと11万人だったそうです。
■第10回日本レコード大賞
昭和43年(1968)12月21日開催。
受賞曲は、黛ジュンの「天使の誘惑」。
新人賞は、ピンキーとキラーズの「恋の季節」他。
■松竹映画「男はつらいよ」公開
昭和44年(1969)8月27日、出演・渥美清、共演に倍賞千恵子、前田吟、佐藤蛾次郎、監督・山田洋次。
以来、平成7年(1995)まで、全48回のシリーズ化となる。
■第11回日本レコード大賞
昭和44年(1969)12月31日開催。
受賞曲は、佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」。
作曲賞は、いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」。
■ケンタッキー・フライドチキン出店
昭和27年(1952)設立。
昭和45年(1970)、日本一号店出店。
■よど号ハイジャック事件
昭和45年(1970)3月31日、羽田空港発福岡行き日本航空351便(よど号)が日本赤軍によってハイジャックされる。
赤軍派の要求は、北への亡命。同機は福岡空港と韓国の金浦国際空港に着陸するが、最終的に犯人の要求を呑み、北に着陸。
赤軍派は、そのまま北に亡命する。
その時の日本赤軍メンバーは、今でもNorth Korea で特権階級として配給付きの軟禁生活を送り、彼等も日本人拉致に関与したと言われています。
■ 70年安保闘争
昭和45年(1970)。
当時の政権は、佐藤栄作内閣です。
当時、10年間の時限立法だった安保条約が自動延長される事を不服とした中核派_全学連、革マル派_全共闘、日本赤軍等、奇形左翼総勢7万余人による一連の暴力闘争運動。これを包括した形で「新左翼運動」とも言われます。
「新左翼」の象徴である全学連、全共闘の名を知らしめる発端となったのは、元々60年安保闘争ですが、この運動から派生し、東大安田講堂事件(S44.1.18)、中核派による革マル派活動家殺人事件(東京教育大学生殺人事件S45.8.3)、山岳ベース事件(S46〜S47)、あさま山荘事件(S47.2.19)、成田闘争(S60.10.20)等が新左翼等によって行われ多くの死傷者を出します。
新左翼団体の中でも、代表的な組織は革マル派、中核派、日本赤軍です。
70年安保闘争当時の政権は、佐藤栄作内閣。
この時の全共闘、全学連の動きは、支那で発生した紅衛兵の行動に酷似しており、彼等のチラシやポスターには、簡体字が多く使われていたそうです。
つまり、彼等は支那中共の革命を模倣し、日本で同様の革命を目指したと言う事が出来ます。
時の社会党、共産党はこの気運を倒閣運動に利用しましたが、逆に世論から見放され選挙に大敗し議席数を減らします。
また、社会党などがこの暴力革命に不当介入した事が反動となり、佐藤内閣自民党政権は、長期政権を実現したとも言われます。
70年安保闘争に関わった全共闘、全学連の学生達は、所謂「団塊の世代」でした。
●内ゲバ
内ゲバ(内部ゲバルト)による犠牲者は、あさま山荘事件が象徴的ですが、中核派・革労協と革マル派との抗争など、ザッと数えても100人余りの新左翼が、同じ新左翼によって殺害されています。
彼等、奇形左翼の信念は、ゲバルト(暴力(独語))。
つまり、警察や軍隊など国家の暴力装置には暴力で対抗しても良いと言う考え方。
実際には、奇形左翼のゲバルトは一般人にも向けられています。
そのゲバルトを手段として、平和・人権・民主主義を主張していくと言う、実に理解不能な正義思想でした。
これは、後のカルト教団、オウム真理教と同じマイナスベクトルの暴力思想です。
自己中心の傲慢な正義を実現する為なら、殺人もいとわないと言う考え方です。
その火種は、戦後日本に、今もくすぶったまま、市民運動家の皮を被って新たな社会騒乱を引き起こそうとしています。
■サラリーマン年収
(出典:賃金構造基本統計調査(厚労省)残業代、ボーナス等を含む。又、従業員10人以上の企業と役所を含む平均年収。)
昭和45年(1970)871,900円
■三島事件
昭和45(1970)年11月25日、東京自衛隊市ヶ谷駐屯地にて、小説家で楯の会のリーダー三島由紀夫が総監を人質に立て篭もりバルコニーから演説を行った後、割腹自決すると言う事件が発生。
■第12回日本レコード大賞
昭和45年(1970)12月31日開催。
受賞曲は、菅原洋一の「今日でお別れ」。
最優秀新人賞は、にしきのあきらの「もう恋なのか」。
■チョコレート菓子・小枝発売(昭和46年)
森永製菓(株)の設立は明治43年(1910)。
代表的商品として、小枝シリーズが昭和46年(1971)に発売、その他ダースシリーズ、ハイチュウ、チョコボール、ウイダーinゼリー、チョイス、マリー、おっとっと、ポテロング、プリングルス、ドーナッチョ、などがあります。
■日本マクドナルド出店
昭和35年(1960)設立した米国のハンバーガー・フランチャイズ店。
日本一号店の出店は昭和46年(1971)。
■ 第13回日本レコード大賞
昭和46年(1971)12月31日開催。
受賞曲は、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」。
最優秀新人賞は、小柳ルミ子の「私の城下町」。
最優秀歌唱賞に、森進一の「おふくろさん」。
■札幌オリンピック
昭和47年(1972)2月3日開催。
日本のメダル獲得数は、金1枚、銀1枚、銅1枚。
■ 沖縄返還
昭和47年(1972)5月、沖縄が米国から返還されました。
奄美大島は昭和28年(1953)に、小笠原諸島は昭和43年(1968)6月にそれぞれ返還されていました。
沖縄返還には、幾つかの日米の密約がありました。
一つは、有事の際に米国は、沖縄に核兵器を運搬し貯蔵する事が出来ると言う事。
もう一つは、返還にかかる費用は全て日本が負担すると言う事。
加えて、沖縄の米軍基地は、そのまま維持すると言う事です。
沖縄返還当時、米国はベトナム戦争の真っ最中だったので、戦略的に重要な位置を占める沖縄を手放す訳にはいかなかったのです。
■テルアビブ空港乱射事件
昭和47年(1972)5月30日、イスラエルのテルアビブ近郊に位置するロッド空港で起きた日本赤軍が実行犯となった武装テロリストによる空港内銃乱射事件。
他国のテロ活動なので、分かりにくいですが、新左翼の仕業です。
犯人は、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)(イスラム原理主義者)と日本赤軍のメンバー。日本赤軍メンバーは、当時、国際義勇兵としてパレスチナ過激派グループに参加しており、場所がイスラエルの空港とあって、アラブ人の過激派ではセキュリティをチェック出来ないと考えたPFLPが日本人の手を借りて事件を強行。
実行部隊となったのは、日本赤軍と重信房子TBS_CEOのメンバー3人でした。
その内、1人は射殺され、もう1人は手榴弾で自爆死。
死者26人、重軽傷73人。
■ウォーターゲート事件
昭和47年(1972)6月17日、米国WashingtonD.Cの民主党本部が入居するウォーターゲート・ビルに不審者が侵入し盗聴器を仕掛けようとしたところを警察に逮捕される。
取調べが進むにつれ、犯人がニクソン大統領と関係がある事が分かってくる。
ニクソン大統領とホワイトハウスは、犯人との関係性を否定するが、マスコミは政権が事件に深く関与している事をスクープする。
又、事件発覚時にホワイトハウスが捜査妨害ともみ消しに直接関わり、事件調査のために設けられた特別検察官を政権が解任するなどの明らかな司法妨害がなされた。
こうしたニクソン政権の不正な動きに対して世論が猛反発し、やがて議会の大統領弾劾が請求され、米国史上初めての大統領辞任に発展する。
■田中角榮政権・誕生
田中角榮(大正7年(1918)5月4日生まれ)。
佐藤栄作総理の退陣により、佐藤に続き、吉田スクール出身、叩き上げでのし上がった代議士、コンピュータ付きブルドーザー、今太閤の異名を持つ田中角榮政権誕生。
在任期間は、昭和47年(1972)7月7日から昭和49年(1974)12月9日。
田中角榮と言えば、特徴的なのは強烈なリーダーシップと庶民性です。
時代性もあるでしょうが、近年の国家財政は、赤字を補てんする為の赤字国債を濫発している中、角榮時代の赤字国債発行数はゼロでした。
住宅金融公庫、公営住宅は角榮が初めて作ったものです。
角榮は、住宅金融公庫法の立法によって、国民に借家から持家住まいが出来る事を狙ったのです。
「ウサギ小屋はいかん、少なくとも管理職は小さくても庭付きの家に住むべきだ。庭があるから家庭と言うのだ。そんな狭苦しい中から良い発想は生まれてこない」。
「持家で住宅ローンを抱えれば、人々は保守化する」角榮の言葉です。
他にも首都建設法、道路整備特別措置法、電源開発促進法は、角榮が立案した議員立法です。
角榮は「政治家の仕事は、政策を作って立法化する事だ。政策は、官僚が作るものと思っていたら時代に取り残される。政策を作れん奴は政治家を辞めた方がいい」と言っています。
ガソリン税、自動車重量税の税収を道路整備に充てると言う政策も角榮の立案です。道路公団の誕生もそうです。
●角榮の流儀と厚い人望の根拠
世間では、当時よく「田中角榮は戦後民主主義の申し子」「角抜きで、戦後は語れない」と言われていました。
角榮は、所謂、吉田スクール出身者であり、大宰相・吉田茂の思想、立場を受け継ぐリベラル護憲派でもあり、マッカーサーが作った戦後秩序の事は、多くが日本の弱体化と武装解除を目的としていた事も心得ていました。
「私の様に吉田さんの流れを汲む者は、池田勇人、佐藤栄作と言った人も含めて、出会いの頃はみんな渾然一体としておった。吉田のじいさんの下でね。それが今日まで連綿と続いている。そう言う意味で、私は保守本流を歩いてきた」と角榮は話しています。
「議員は1人というものの、この背後には何万人もの有権者の国民大衆があって、議員1人の発言は、正に国民大衆の血の叫びなのであります」角榮の議員初当選後の言葉です。
「役人は怖くないが、地元の人が一番怖い」
角榮は、国民が「主権在民をモットーとした議会制民主主義の生命の源」である事をわきまえていました。
政治家には、政敵と言うものがつきもので、角榮にも少なからず敵がいましたが、角榮と一度直に接した人の殆どは、角榮を高く評価したそうです。
特に、若手議員からは「オヤジ」と呼ばれて慕われ、若手、中堅を問わず角榮を信頼する議員が自然と集まって、やがて派閥が形成され、その派閥は木曜クラブと呼ばれます。
田中派の若手議員の中には、橋本龍太郎、小沢一郎、梶山静六、小渕恵三等もいました。
官僚に対しては、仕事に関して、方向を示し、決定を下しますが、官僚が一番嫌う責任は自分が取り、尚且つ人事に手を突っ込まないと言う角榮の流儀は、多くの官僚にも支持され、官僚はこぞって「田中詣で」をしたそうです。
問題を先送りしない、決断と実行の人でもありました。
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乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
出典:Wikipedia、平成史(片山杜秀、佐藤優著)、9.11の謎 世界はだまされた!?(成澤宗男著)、知識ゼロからの田中角栄入門(小林吉弥著)、田中角榮(私が最後に伝えたいこと)(佐藤昭子著)、幸せの戦後史(菊地史彦著)