・・The XX Files 20th.
Please Don't Korea❗️
True ・・真実は動き始めた
Han-nichi is Never Over⁉️
This is a Fact
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
Sub Title "Rewrite The beginning of history"
We are SumerJapanese. Departure.
(FunnyBomb).
■赤線廃止・売春防止法制定
代表的な赤線地帯に、吉原、新宿2丁目、玉ノ井があります。
それらは、江戸時代から続く遊郭が明治維新後も残ったものでした。
赤線とは、公娼制度により公的に売春が認められていた地域で、赤線地帯とも言われていました。
昭和31年(1956年)、売春防止法制定。
売春防止法制定後、赤線内の売春目的の風俗業者は、バー、スナック、料亭、ソープランド、旅館、ラブホテルなどに姿を変えますが、中には違法営業を継続する店舗も残りました。
■大躍進政策
昭和33年(1958)、支那中共は、大躍進政策と称して、食糧大増産計画、ダム・灌漑施設の大規模工事を推し進めましたが、杜撰な計画の為失敗し、国民4千万人を餓死させました。
■ サラリーマン年収
(出典:賃金構造基本統計調査(厚労省)残業代、ボーナス等を含む。又、従業員10人以上の企業と役所を含む平均年収。)
昭和33年(1958)199,300円
■皇太子・継宮明仁(ツグノミヤ・アキヒト)親王殿下、正田美智子さんご成婚
昭和34年(1959年)4月10日ご成婚。民間人(平民)から皇太子妃が迎えられたのは日本開闢以来初の出来事でした。
■ハワイ、米国50番目の州に編入
昭和34年(1959)8月21日。
ハワイがアメリカ合衆国の州として正式に編入します。
■新潟日赤センター爆破未遂事件
昭和34年(1959)12月4日、当時、石橋政権下で閣議決定により実施された在日の北朝鮮帰国事業に対し、反発した李承晩政権の韓国は、日韓首脳会談を拒否。
それに呼応して本国の命令を受けた民団(在日本大韓民国居留民団)の工作員が、新潟県新発田市のバーで発見され取調べを求められます。
彼等は、新潟日赤センターの爆破テロを企んでいて、ダイナマイト12本を携帯していた事が発覚、即逮捕されます。
取調べによって、この爆破テロは、韓国本国の指令による事が判明し、日本社会は在日による国家破壊活動の脅威に一時騒然となりました。
■60年安保闘争
昭和34年(1959)〜昭和35年(1960)。
60年安保闘争とは、全共闘(全学共闘会議)、全学連等を核とする暴力左翼勢力が起こした安保改定に反対する国会包囲抗議デモ、暴力破壊活動を指し、デモ参加者は公式発表では13万人となっています。デモ隊鎮圧には自衛隊まで出動。
この抗議・運動はそのまま倒閣、反政府、反米運動、(ベトナム戦争への)反戦運動にも繋がっていきます。
時の政権は、岸信介内閣でした。
■岸信介の来歴
岸は、明治29年(1896)11月13日山口県山口市に生まれます。
東京帝国大学・法学部(現・東大)を首席で卒業する秀才。商工省のエリート官僚出身。石原将軍が起草した、重要産業五カ年計画の実行部隊を担い、東條政権下、満洲国を経済産業の側面から民主法治国家に飛躍させた実力者。
戦後、A級戦犯として、GHQに拘留されるも、起訴を免れ後に首相の座まで上り詰めます。憲政史上、タカ派で知られる保守本流の代表格です。
60年安保闘争では命を狙われますが、辛くも難を逃れます。
現在の総理大臣、安倍晋三氏の母方(洋子)の祖父に当たります。
■第1回日本レコード大賞
昭和34年(1959)12月27日開催。
TBS系で記念すべき栄えある第1回放送ではありましたが、駆け出しの新番組でもあり、知名度は著しく低く、放送時間は僅か30分でした。
受賞曲は、水原弘の「黒い花びら」。
■テロの混乱の中、渡米
通称「日米安保」、正式名称『日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約』。
全学連(全日本学生自治会総連合)は、安保改定反対と全面講和を掲げ、昭和23年(1948)に全国145箇所の大学で結成され、初期の活動は日本共産党主導の下、サンフランシスコ講和条約の全面講和運動、反レッドパージ闘争、朝鮮戦争反対闘争等を行う新左翼学生組織でした。
60年安保闘争は、その全学連に、社会党と総評(日本労働組合総評議会)が、共産党をオブザーバーとして昭和34年(1959)3月に結成した「安保改定阻止国民会議」が加わり、一般市民を巻き込み繰り広げられた一大社会騒乱でした。
当時、過熱する新左翼運動は、社会現象と化し、反安保デモ活動、抗議運動は益々激化していきました。
昭和34年(1959)11月27日、国会周辺に2万7千人(警視庁調査)のデモ参加者が集まり、国会内には1万人の全学連、社会党員、日教組、国民会議等からなるデモ隊が乱入。
自民党は、デモ規制法案を提出しました。
昭和35年(1960)、安保条約改定の年に入ります。
1月15日、改定安保条約の調印にワシントンへ渡航しようとする岸を制止する為、全学連等抗議者数百人が羽田空港に乱入、座り込み、空港内食堂を破壊、乱闘等を行い羽田空港を占拠しました。
岸信介総理は、予定通り羽田空港に向かいワシントンD.C.へ渡米。過激派が、機動隊ともみ合っています。
岸は、無事、ワシントンへ到着し、アイゼンハワー大統領と面会します。
●左翼市民団体に破防法発動
1月18日、公安は全学連等、複数団体を破防法適用団体に認定しました。
清瀬一郎衆議院議長は、自民党に離党届を提出し国会への警官隊導入を決断します。
デモ隊が国会内にまで乱入し、野党はおろか、与党議員の一部すら、その暴力行為に迎合する事態を目の当たりにした清瀬議長は、警察の手を借りなければ、審議は進行出来ないと判断したのです。
国論は、まとまるどころか混乱する一方で、自民党内にさえ反対勢力が出る始末でした。
自民党内、とりわけ河野一郎(河野洋平の父)の一派は、反対勢力の急先鋒でした。
河野は、期限や行政協定、配備、装備などについて批判し、反対の為の反対の動きを展開、それを池田勇人などが支持すると言う構図となっていました。
池田勇人は、岸内閣の通産大臣でした。
時代は、新左翼学生運動のうねりと共にマスコミ、国会内反勢力議員、反米意識が一体となって大きな流れを形成し、日を重ねる毎にデモ活動は激化していました。
●安保改定調印
昭和35年(1960)1月19日、ホワイトハウスで安保条約改定の調印式が行われ、日米安保は正式に改定されました。
日本での採決の前に、条約改定が終わった事になります。
昭和35年(1960) 5月19日、衆議院本会議で採決が行われます。
500人の警官隊が国会議事堂に配置されました。
社会党議員らが椅子や机でバリケードを築き座り込みしています。
怒号の中、警官は淡々とバリケードを撤去していきます。
安保改定の特別委員長を任された小沢佐重喜は、会期延長、新条約の採決を考えていました。
火に油を注いだ様な安保闘争の騒乱に憂慮した岸は、警察組織だけではデモ隊を抑える事は難しいと判断、旧友の児玉誉士夫のもとへ「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本を使者として送ったと言われます(wikipedia)。
児玉の指示により、息のかかった右翼組織、任侠系団体、暗黒街のリーダーなどが米国大統領を守る為に協力体制に入ったと言われています。
●ゼネスト・ハガティ事件・社会騒乱
昭和35年(1960) 6月4日、総評が時限ゼネストを指令し、全国数百万人の労働者がストライキを強行します。
大統領の来日は迫ります。
6月10日、大統領先発隊として、ハガティ大統領報道秘書官が羽田空港に到着します。
狂気と化したデモ隊は幾重にもなってハガティ秘書官の車を取り囲み、乗っていた大統領報道官とマッカーサー駐日米国大使は身動き出来なくなりました。
米軍のヘリが出動し、2人は救出されます。
これを「ハガティ事件」と言います。
昭和35年(1960)6月15日、この日のデモ隊は約11万人が国会周辺を包囲していました。
ストには全国約580万人が参加し、全国3万店舗程が閉店ストを敢行します。
この日の抗議活動の中で、デモ隊の一部が転倒し将棋倒しとなり、その下敷きとなって東大生、樺美智子氏が死亡します。
昭和35年6月の情勢は、正に戒厳令一歩手前の社会騒乱となりました。
●臨時閣議声明
6月16日、前日の機動隊と学生活動家ら反対勢力、右翼組織、ヤクザなどの大規模な激突により、多数の死傷者が出た事に対し、状況を憂慮した岸総理は、異例の臨時閣議声明を発表しました。
『この度の全学連の暴挙は暴力革命によって、民主的な議会政治を破壊し、現在の社会秩序を覆さんとする国際共産主義の企図に踊らされつつある計画的行動に他ならないのであって、もとより国民大多数の到底容認し得ざるところである。
我々は、自由と民主主義の基盤の上に初めて真の平和と繁栄が築かれる事を確信しているが故に、これらを破壊せんとするいかなる暴力にも屈する事なく完全にこれを排撃し、もって民生の安定を守り抜かんとするものである。』
アイゼンハワー大統領の来日は、結局諦めざるを得ませんでした。
昭和35年(1960)7月14日、岸は、暴漢に襲撃され足を刺される重傷を負います。
翌7月15日、岸は、断腸の思いで内閣を総辞職しました。当時の世論が岸に向けた反発は、不当だったと言ってもいいでしょう。
■高度経済成長
昭和35年(1960)、岸政権の後を継いで、吉田元総理の愛弟子、リベラル派の池田勇人が総理になると、政府は「所得倍増計画」を打ち立てました。
その頃の日本は好景気が続いていました。
岩戸景気に続く、この好景気を「いざなぎ景気」と言いました。
古事記に出てくる"イザナギのミコト"のいざなぎです。
何年にも亘って年率10%を超える高度経済成長によって、奇跡とも言える復興を成し遂げました。
昭和39年(1964)、日本は東京オリンピックを開催し、新幹線を開通させました。
昭和43年(1968)になると、日本は、GNP国内総生産で、西独国を超えて、米国に次ぐ世界第2位の経済大国にのし上がりました。
かつての敵国、米国の背後まで迫ったのです。
乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
出典:vol.3参照