・・The XX Files 20th.
Please Don't Korea❗️
Truth ・・真実は動き始めた
Han-nichi is Never Over⁉️
This is a Fact
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
Sub Title "Back To 戦後 Beginning"
We are SumerJapanese.Departure.
(FunnyBomb).
■イスラエル建国
昭和22年(1947)5月、UN(United Nations連合国)のテーブルにパレスチナ問題が議題として提案されました。
UN特別委は、2つの解決案を提出します。
1つはユダヤ・アラブ両民族からなる連邦国家案。
もう1つは、イスラエルの国土にユダヤ人国家、アラブ人国家を建設し、首都エルサレムをUNの管理下に置くと言う案です。
同年11月、UN総会でトルーマン米大統領の掛け声により後者の新分割案が可決しました。
そして、現在のイスラエル国が建国されたのです。
その建国当初の建前は今も変わりません。
ただし、中東戦争を経た結果、UNの予想に反して、国土の大半をユダヤ人が治める結末となります。
新分割案は、勿論全会一致ではありませんでした。
反対票は13票、棄権が10票もありました。
このUNの決議に対し、怒り心頭のアラブ諸国は、UNが新分割案を決議した直後、ユダヤ人入植地に攻撃を開始しました。
アラブ連盟のアザム事務局長は、ラジオ放送で「大殺戮とユダヤ人絶滅の戦いが始まる」と宣言します。
当初、ユダヤ側の武器や兵力は、限られたものでした。しかし、ユダヤ人達は勝利を確信していました。
●中東戦争勃発●
何故なら、ユダヤのバックには、英国のチャーチル首相がいたからです。
こうして、第一次中東戦争が始まります。
ユダヤに対し、パレスチナのアラブ勢以外にエジプト、シリア、イラク、レバノン等各国の国軍が交戦しました。
当時のソ連とアラブ諸国は、資本主義者と帝国主義者の陰謀だと考えました。他国の極左連中もほぼ同じ捉え方をしていました。
しかし、筆者(ポール・ジョンソン)は米英当局ともに、いずれもユダヤ人国家の成立など望んでいなかったと述べています。
ユダヤ人国家の誕生は、西側陣営にとって最悪の結果をもたらすと思っていたからです。
実のところ、ロシア人やアラブ人が言う陰謀説が本当だったとしたら、それはロシア人が企てた陰謀と考えるのが自然でした。
何故なら、孤立するユダヤ人を一番理解できるのは、同じ極左主義のソ連だからです。
昭和23年(1948年)5月、イスラエル国初代首相ダビッド・ベン・グリオンは、テルアビブ美術館前で独立宣言を読み上げました。
『故郷を離れなければならなかったにも関わらず、ユダヤ人は全ての離散体験(Diaspora)を通じ、常にイスラエルの国に忠実であり続け、政治的自由を回復する希望を持ち、そこに戻る為絶えず祈った。この歴史的愛着を動機としてユダヤ人は何世紀にも渡り、父祖の国への帰還を目指して努力してきた』
~1948年(S23) イスラエル独立宣言(建国宣言)
◆逆転の歯車・ムスリムのDiaspora◆
独立記念日のめでたい日でも、夜になるとエジプト軍は空から空爆を開始しました。
英国は、建国宣言の翌日、ユダヤが望んだ通り軍の撤退を完了します。
元々、イスラエルはww2終結後、英軍の占領下にあり、UNの新分割案は、ユダヤのシオニスト・エリート(ユダヤの故郷、イスラエルに帰り、ユダヤ民族の国家を再建しようする思想(シオニズム)を持つユダヤの上流階級)の申し入れにより、英軍が撤退する事が条件となっていたからです。
アラブ軍が、パレスチナへ戻ってきます。
イスラエルは、敵国へ休戦を申し出ます。
ユダヤ・アラブ両者は、ひと時の休戦中に戦力を温存し、戦闘を再開します。イスラエル軍は、チェコだけでなく、仏国からも大量に兵器を調達していました。
UN決議(昭和22年11月)の結果、イスラエルにユダヤとアラブ、連合国の三者に領土を配分すると言う約定など意に介さない「ユダヤ人国家」として、イスラエルは建国していました。
それが、現在に至るパレスチナ問題の発端であり、皮肉にもユダヤ人に変わって、今度はムスリムがディアスポラ(Diaspora)する始まりの合図でした。
※Diaspora(ディアスポラ)〜祖国を捨て他国に離散して生きる事。
建国を勝ち取ったシオニスト・エリート集団が、アラブ国家をエレツ・イスラエルに建てる事など認める筈がなかったのです。
イスラエル軍は、明らかに優勢でした。
ユダヤ人達は、UNが決議した配分よりも多くの土地を領有していきます。
2回目の休戦が申し立てられます。
ユダヤ人は、このシオンの地で、古代第一神殿(ソロモン神殿)破壊以来、歴史上初めて軍事的優勢を獲得したのです。
昭和24年(1949年)1月、イスラエルは、最終的な休戦会議を開きました。
エジプト、レバノン、トランス・ヨルダン、シリアと各々別々の日程で休戦協定に調印します。休戦であって、和平ではありませんが。
しかし、イラクだけは頑として休戦協定には姿を見せませんでした。
この昭和24年(1949)の休戦に至るまでのユダヤ人とアラブ人の戦争を、「第一次中東戦争」と言います。
■日教組の設立(呪詛)
昭和22年(1947年)6月8日。
この労働組合は、戦後の占領下、日本人の洗脳を企てていたGHQの指令によって作り出された自虐教育を実施する為の組織でした。
組織として、容共、親北派が多く、北朝鮮擁護、熱烈な金日成支持、チュチェ思想に心酔する組合員も多数存在しました。
教育による日本人の洗脳を担当したGHQの内部組織、CI&E(民間情報教育局)は、戦後、NHK放送会館に設置されていました。
CI&Eの使命は、表向きは日本人に「民主主義」を教えると言う名目でしたが、真の狙いは「日本は米国に戦争を仕掛け、敗戦降伏した」と言う罪悪感、自虐感を、マスコミや教育を通じて国民に植え付け、日本の教育の中に存在した「軍国主義、国家主義、軍事教練、愛国心」を徹底的に潰す事でした。
●WGIP(War Gilt information Program)
絶えず攻勢に出てくるマッカーサーは、日本の伝統文化を抹殺しただけでなく、学校教育を利用して、日本人に『日本は大罪を犯した恥ずべき国』『愛国心は侵略戦争を引き起こす』『君が代は軍隊行進曲』などと刷り込みました。
所謂、ウォーギルト・インフォメーション・プログラム、洗脳です。
この洗脳は「平和教育」と言う美しい言葉が付けられ、教育現場でも実践されました。
このマッカーサーの洗脳プログラムに呪縛され、今なお、日本人は75年前の足かせの鎖を断ち切れず、国の意識と行動に無残な後遺症を残したまま、21世紀の大海原に呑み込まれて行きます。
マッカーサーは、優劣の関係を更に強化し、利用しました。
戦後、NHK放送会館の中に設立された「民間情報教育局」CI&E(Civil Information and Education)が日本教育を担当しました。
教育局などと称していますが、その役員、職員の殆どは軍人です。
■教育勅語の抹殺
昭和23年(1948年)6月19日。
大日本帝国の魂を明文化したものは、「明治憲法」と「教育勅語」でした。
明治憲法は、明治22年(1889)、教育勅語は明治23年(1890)に公布され、国民の陛下に対する忠義と愛国心を育む為の、人生の『道標』でした。
当時の前田多聞文部大臣は、就任記者会見で、「日本の教育の基礎は、教育勅語と終戦の御詔勅抜きでは存在しえない。」と言いました。
同時に「国民の無関心こそ、昨今の道徳的退廃の根本である」と嘆きます。
教育勅語の本文は、次の通りです・・・
『朕想うに我が皇祖皇宗国を肇(ハジ)むる事、宏遠に徳をたつる事、深厚なり。我が臣民よく忠にかく孝に億兆心を一にして、世世その美をなせるは、此れ我が国体の精華にして、教育の淵源、また実にここに存す爾(ナンジ)臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし、学を修め、業を習い、もって智能を啓発し徳器を成就し進んで公益を広め世務を開き、常に国憲を重んじ国法に従い、一旦緩急あれば義勇公に奉し、もって天壌無窮の皇運を扶翼すべし。かくの如きは、独り朕が忠良の臣民たるのみならず、又もって、爾祖先の遺風を顕彰するに足らん・・・』
●教育勅語を葬り、教育基本法が誕生
GHQは、教育勅語を「極めて国粋主義的で、狂信的天皇崇拝を助長するもの」と主張していました。
GHQバンス宗教部長は、オア教育部長に「教育勅語は絶対に学校内に持ち込まれてはならない」と言います。
日本の保守派は、「憲法戦線」で大敗しました。
それだけに、最後の「砦」となる教育勅語は命に代えても守りたいとあの手この手でGHQとギリギリの駆け引きを展開していました。
しかし、教育こそ政治、マッカーサー憲法の精神である、民主主義 ≒ 人権 ≒ 個人主義 に真っ向からそぐわない教育勅語は、米国が、最も「殺したいもの」でした。
憲法がそうだった様に、教育勅語も表向きは日本人自らの手で廃止にした形を取ります。
昭和23年(1948年)6月19日、教育勅語は、教育基本法施行と同時に「教育勅語等排除に関する決議」等が議決されGHQに抹殺されました。
これは、世代間の断絶などという生易しいものでなく、「日本史の断絶」「歴史の空白」、亡国への前兆でした。
そして日本人から、道徳心、倫理感、愛国心は見事なまでに消えてしまいました。
To Be Continue
乱筆乱文長文を、ここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
出典:vol.3参照