流転の戦後日本6 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・The XX Files 20th.

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

   Han-nichi is Never Over⁉️

This is a Fact

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   Sub Title "Back To 戦後 Beginning"

 We are SumerJapanese.Departure.

FunnyBomb.

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第三国人社会党

 肝心なのは、これら在日朝鮮人が社会党の大きな資金提供者となっていた事です。

 小説家・吉屋信子のエッセイの中には次の様に書かれています。

 吉屋と菊池寛(文春の創刊者)が京都に汽車で旅行していた時に、菊池が「今度の選挙は社会党も苦しいだろう。金も余りないだろうし」と口にしたそうです。

 すると「何を言うか」と、いきなり在日とおぼしき連中に取り囲まれたと言うのです。

 彼等は「社会党には金はあるぞ。俺達はいっぱい出しているんだ」と凄み、吉屋は非常な恐怖感を覚えたと言うのです。

 

 これは、在日から社会党系に金が流れていた事を示す非常に興味深い話です。

 こう言う在日との深い関係があったから、社会党がサンフランシスコ講和条約での全面講和にこだわり日本の独立に反対したのも納得のいく話です。

 そして、その構図はこの前までの民主党政権まで続きます。

 民団(在日本大韓民国民団)は、民主党支持を明言していましたし、民主党もわざわざ党を挙げて支援のお礼や夫婦別姓、外国人参政権など民団の望む政策を国会に提案していたのです。

 

占領下・第三国人の凶悪犯罪

 日本が敗戦した後、日本国内にいた朝鮮系日本人達は、日本軍の武器と軍服を掠奪して武装し徒党を組み多くの日本人を無差別に殺傷しました。 

   GHQの記録に残ってるだけで4千人以上の日本人が餌食になりました。 

   それは、国内各地における暴行、略奪、窃盗、官公署への横暴な態度と不当要求、建築物の不法占拠、電車、バスなどの不法乗車、人民裁判などであり、それは酷いものだったと言います。

    当時、GHQの刀狩りによって、日本の警察は拳銃は勿論、警棒すら所持していなかった為、彼等在日は様々な武器を使い日本人を殺します・・

 警察は、逮捕どころか逆に暴行傷害を受けながら為す術もなかったのです。

 

 在日朝鮮人達は、やりたい放題で、全国駅前の一等地は、彼等に占領されました。 

 今も残る駅前パチンコは、その象徴です。

   勿論、そこに住んでいた日本人女性は容赦なく強姦殺傷され追放されたのです。 

   それが事実である証拠に、昭和20年(1945910、現在の朝鮮総連の前身、朝連(在日朝鮮人連盟)が結成された折、朝連は、「我々は、日本の敗戦で開放された今、連合国人だから、敗戦国日本の法令に従う義務はない。戦争中、我々を虐待した日本人は戦犯として制裁を加えなければならない。」と表明しています。

 GHQは、昭和20年(1945930「朝鮮人連盟発行の鉄道旅行乗車券禁止に関する覚書」で、朝鮮人が『地外法権的地位にないこと』を明らかにする異例の発表を行っています。 

 戦後日本で、吉田茂総理もマッカーサーに出した文書の中で「在日朝鮮人は、戦後復興に一切貢献してないし、犯罪率が極めて高い」と批判していた程、残虐非道な強盗殺傷事件を続発させた在日朝鮮人と、朝鮮進駐軍の暴虐ぶりを知っている人なら納得できると思います。

 日本がGHQ占領下の在日による凶悪犯罪は、有名なものでもザッと次の様なものがあります。

 

名古屋少年匕首(アイクチ)殺人事件

 (匕首とは、いわゆるあちらの世界で呼ばれるドスと言う短刀の事です。)

   昭和20年(1945830、名古屋市北区で日本人の少年3人が在日朝鮮人に匕首で切りつけられ現金を強奪される強盗殺人事件。

   死亡者1名、負傷者1名、犯人は拘置所から脱走し行方不明、50年後韓国へ逃亡していた事が判明しましたが、時効により罪を問われませんでした。

 

生田警察署襲撃事件

 昭和20年(19451224、神戸市生田署に勾留中の拳銃強盗犯の釈放を不当に要求し、50人以上の朝鮮人が警察署を襲撃しGHQ(軍隊)が鎮圧に出動、検挙される事件。

 

直江津駅リンチ殺人事件

 昭和20年(19451229、新潟県直江津駅で、満員列車に乗車出来なかった朝鮮人が、窓を割って乗車した事を注意した日本人を「生意気だ」と言って鉄パイプ、スコップなどで殴打暴行し殺害。

 

長崎警察署襲撃事件

 昭和21年(1946513、戦後混乱期に起きた警察署襲撃事件。

   当時、中韓人は戦勝国人を自認し、 国内全域で流行っていた闇市や強盗、暴動行為によって暴利を貪っていました。

   この不法行為を一斉取締り、検挙した容疑者の即時釈放を求めた中韓人総勢200人が警察署を襲撃し、死者1名、重軽傷者10名を出した事件。

   

 その他にも、多数の襲撃事件、強盗、傷害、殺傷事件を起こしています。

 

■台湾大虐殺、二・二八事件

 日本の敗戦により、台湾は日本統治から国民党軍の統治下となり、住民の不満は鬱積していました。

 そんな時、昭和22年(1947228に二・二八事件が勃発します。

   きっかけは一人の女性がヤミ煙草を密売していた為、取締対象となった事でした。

   煙草は、専売品だったので直ちに没収されましたが、同時に所持金も全て取り上げられました。

   現金の返却を求めた彼女を、取締員が銃で殴打していた光景を目撃した住民が取締員を襲撃しました。

   何故なら、住民は、取締まる側、自らが煙草を密売して稼いでいた事を知っていたのです。

   国民党政府の取締員と、激昂した住民が衝突し、政府は、住民を武力鎮圧します。  

   機銃掃射により、住民側に大量の死傷者が出ます。それは、鎮圧と言う名の殺戮でした。

   台湾人に対する無差別の殺戮は、台湾全土に広がり台湾人の抵抗は、完全に潰されました。

   殺戮は、機関銃掃射以外に、鼻、耳を削ぎ落とし、手のひらを裂いた穴に、針金を通して数人一組に繋いだり、麻袋に詰めて海や川に投げ捨てるなど残虐極まりないものでした。

   支那大陸人お得意のミューティレーションと言う残忍な因習でした。

 本多勝一の「中国の旅」に書かれていた日本兵が行った殺戮と全く同じ方法です。

 こう言う悪習慣が、日本のものではなく、大陸人の蛮行である事が如実に現れた事例です。

   逮捕されても、処刑の前に市中を引き回され、処刑後は数日間にわたり市民への見せしめとして晒された死者も多くいました。

   犠牲者数は、推定28千人となっています。

   この数字は、二・二八事件に限定したもので、国民党の餌食になった台湾住民は、総計10万人以上とも流布されています。

   国民党政府は、台湾人の政治改革の要求に正面から対処する事なく、虐殺と粛清で封じ、それは外省人(支那人)と台湾人(本省人)の対立をもたらしました。

   現在も残る本省人と外省人の対立は、この二・二八事件に起因しています。

 

日本国憲法施行

 昭和22年(194753

 現行憲法施行日。

 主義思想観念の左右を問わず「日本国憲法第9条がある限り、戦後レジームは終わらない」と言われているのは、保守論壇の間では常識的観念であり、特に9条は、日本人の主体性や種族の誇り名誉を封殺する嘆きの壁となり、左翼の間では、戦後利権確保の為の最後の砦、歪んだ戦後秩序の根拠となっています。

 「ハーグ陸戦条約」と言う国際条約があります。

 そこには「戦勝国が敗戦国の法律を変える事は許されない」と書かれているそうです。

 その解釈からすると、マッカーサーが憲法草案を作った事自体が、国際条約違反と断罪されるべきかも知れません。

 しかし、だからこそ、マッカーサーは、日本人自らがマッカーサー憲法を自分が作ったものとして国会へ上程させ、議決させたとも言えます。

 

To Be Continue

 

 乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 

 

出典:vol.3参照