・・The XX Files 20th.
Please Don't Korea❗️
Truth ・・真実は動き始めた
Han-nichi is Never Over⁉️
This is a Fact
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
Sub Title "Back To 戦後 Beginning"
We are SumerJapanese.Departure.
(FunnyBomb).
■A級戦犯処刑の日
昭和23年(1948年)12月23日、A級戦犯の罪として死刑執行7人。卑劣にも、GHQは先帝陛下(平成天皇)のお誕生日に死刑執行したのです。
因みにA級戦犯とは「平和に対する罪」を侵した者、B級戦犯とは「戦争犯罪」を侵した者、C級戦犯とは「人道に対する罪」を侵した者と言う意味です。
死刑となったのは、板垣征四郎陸軍大臣、木村兵太郎陸軍大将、土肥原賢ニ陸軍大将、東條英機元総理、武藤章陸軍中将、松井石根陸軍大将、広田弘毅元総理の7人です。
永遠に忘れない様にと、その日に執行しました。
7人だけじゃありません。
B、C級戦犯の罪として、600人余りが絞首刑、300人余りが銃殺刑にされています。
死刑執行された軍人の中には、冤罪だった人も多く含まれていると言われています。
復讐を遂げる為、一方的に訴追し、弁護も審理もなかったのです。
インドのパール判事は、唯一の国際法の専門法律家として当該裁判に参加し、全員無罪判決を出しています。また、反対意見書を法廷に提出しています。
戦前の日本が行った行為は全部悪であり、弁護の余地はないと言わねば、その人は言論界や教育界に身を置く事が出来ない様な状況が続いてきました。
昨今の「反日日本人」が横行する事となったのも、その為です。
およそ2年7ヶ月に及ぶ東京裁判において、戦争指導者として、25名がA級戦犯とされた訳ですが、「戦後の日本」=「犯罪国家」という印象は、この裁判によって日本の内外に広められ、それが戦後日本の思想と教育の体制になってしまいました。
しかし、この東京裁判ほど非文明的裁判はありません。
●裁判と言う名の復讐劇
東京裁判とは通称で、正式名称は「極東国際軍事裁判」です。
国際という名称があるから、何か国際法に基づいたものだと思っている人も少なくありませんが、それは全くの誤りです。
この裁判の根拠となっているのは、占領軍が公判直前に作った「極東軍事裁判所条例」(昭和21年1月19日布告)という一片の文書に過ぎません(別名・マッカーサー条例)。
それどころが裁判官と検事がグルになっているのですから、これは裁判と呼べる代物でもありません。
つまり、これは裁判と言う名を借りた復讐の儀式だったのです。
後にマッカーサーは、朝鮮戦争が始まると「やはり、あの裁判はやるべきではなかった。日本は正しかった」と悟り、それが後の上院軍事外交合同委員会の聴聞会での発言となり、サンフランシスコ講和条約での日本の国際社会早期復帰へと繋がっていく事になります。
●何故、石原将軍は被告にならなかったのか
この東京裁判を顧る時、著者(渡部)には必ず思い出される事があります。
それは、あの満洲建国の中心的存在として知られる石原莞爾将軍の事です。
たまたま将軍は、著者と郷里が同じで旧制中学でも将軍は、著者の先輩に当たります。
その為、著者は子供の頃から将軍の話を良く聞かされていました。
当時は、既に東京裁判が始まっていました。
政治家や軍人は元より、普通の人でさえ戦犯として連行されるのではないかと脅えていた時代に、石原将軍は平然と過されていたといいます。
石原将軍は、周囲にこう言っておられたそうです。
「満洲国を作ったのは自分である。その人間を呼ばないで、どうして戦犯裁判などが始められようか。私のいない東京裁判など滑稽の極みである。」
●石原は勝機を読んでいた
敗戦後の東京裁判、臨時法廷。
外国人記者団と検事との雑談の中で、検事は石原に「日本では、天王山天王山と言ったが、天王山が幾つも有る筈がない。何が天王山だったのか」と質問したと言います。
石原はこう答えています。
「真の天王山は、サイパン島である。日本が真にサイパン島を防備するのに万全を期していたならば、米軍の侵入を防ぐ事が出来た筈だ。ところが、当の豊田司令官は昼寝をしていたではないか。サイパンを手に入れる事が出来なければ、米軍は本土爆撃する事は困難だった。何となればサイパンと本土よりの攻撃で挟み討ちになるからだ。サイパンさえ確実に守れば、持久戦になる所だ。蒋介石がその態度を明確にしたのはサイパン島がやられてからだ。サイパンさえ守り切れば、日本は東亜の内乱を政治的に解決し、支那に心から謝罪し支那事変を解決して、次に民族の結合力を利用して、東亜一丸となる事が出来ただろう。レイテを守り必然的に持久戦に入り、日本は少なくとも負けはしなかったろう」と答えました。
検事は、軍人でしたから作戦の事は知っていたので「非常に参考になる事を聞いて有難い。こんなずば抜けた作戦の話を聞いたのは初めてだ。ところで東條は、何故この作戦を用いなかったのか」と石原に問います。
・・・石原は答えます。
「東條は馬鹿で、俺は賢いからだ」。
石原が、総理だったらと思うと悔やみきれません。
しかし、東條と言う人は、ガチで東南アジアの植民地解放と言う事を目指し、又、大東亜戦争の影響によって、ww2戦後の東南アジア諸国が列強植民地から解放され国の独立を果たしたのも歴史的事実です。
■戦後の闇市
朝鮮半島から日本に入ってきたKoreanは、両班(ヤンバン(朝鮮の貴族))出身者を除けば、皆が困窮者でした。
そんな彼等も戦後、GHQ占領下の日本では殆どが金持ちに成り上がったと言われます。
戦後の闇市で稼いだのです。
日本人でも闇市に加わっていた人達はいましたが、皆警察の厳しい取締りを受けました。
しかし、KoreanJapanese(在日朝鮮人)は警察が取締れなかったのです。
だから、彼等は思うがままに稼ぐ事が出来ました。
占領下では、KoreanJapanese(在日達)は「第三国人」と呼ばれていました。
蔑称ではありません。
彼等が日本の敵国として戦ったのではないと言う意味なのです。
敗戦により、KoreanJapanese達は日本国籍から離脱した為、占領下では取締りの適用外だったのでしょう。
この第三国人は、日本が占領下である事が望ましいと考えていた筈です。
哲学者の木田元氏によると、鶴岡から東京までの汽車はいつも超満員だったそうです。
皆米や農産物、その他の生活物資を背負って都会に出かけ、闇で儲けて生活費を得ていたのです。
ところが、満員列車の中でポカッと空いた車両がありました。
KoreanJapaneseが頑張っている車両で、日本人を入れなかったからです。
そうして、悠々と闇生活を送って金持ちになっていったのが占領下の在日韓国朝鮮人でした。
そんな事情で、闇市周辺は治安が悪化していたそうです。
闇市の利用者は、主に都市部の市民で、食糧が枯渇する家庭が多く、都市部では少なからず毎月の様に餓死する市民が出ました。
特に上野や大阪では、栄養失調や餓死が社会問題化し、政府がGHQに対して食糧の緊急輸入を要請する程でした。
日比谷公園では、餓死対策国民大会や、全国的にも米を求めるデモ行進などが起こっていました。
闇市では、米やイモの流通が主な物でしたが、他にも野菜、うどん、酒、魚なども流通していたそうです。
GHQ占領直後の日本は、食糧を全て国内で自給し、輸入品が全くなかった事、また幹線道路が荒廃していた事により、農村からの食糧輸送が激減していた事なども都市部での食糧不足に拍車をかけていた様です。
農村部では、それ程食糧に枯渇していたと言う事情はなかった様ですが、それでも配給制度がまだ現存していた為、食糧の絶対量や献立にも制限がありました。
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乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
出典:vol.3参照