・・The XX Files 20th.
Please Don't Korea❗️
Truth ・・真実は動き始めた
Han-nichi is Never Over⁉️
This is a Fact
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
Sub Title "Back To 戦後 Beginning"
We are SumerJapanese.Departure.
(FunnyBomb).
■吉田茂・長期政権
吉田茂総理は、第二次政権発足の昭和23年(1948)10月15日から昭和29年(1954)12月10日の第五次吉田政権終了までの約6年間総理を歴任します。
現職の安倍総理が歴任するまでは、戦後日本で二番目に位置する長期政権となりました。一番目が佐藤栄作総理です。
つまり、昭和45年頃(1970)までは、戦後最長の長期政権と言う事になります。
第二次吉田政権で特筆すべき事は、佐藤栄作を官房長官に起用した事です。
吉田スクールの愛弟子である佐藤栄作、当時まだ代議士経験のない佐藤を官房長官に起用するという抜てき人事をやってのける、前例に囚われない、如何にも意表を突いた吉田らしさが表れています。
因みに、日本史上、一番の長期政権を築いたのは、通算で安倍晋三現総理となりました。
次いで桂太郎、佐藤栄作(安倍総理の叔父)、伊藤博文、吉田茂の順です。
連続在職日数の長さでは、安倍総理、佐藤栄作、吉田茂、小泉純一郎、中曽根康弘と言う順になります。
昭和21年(1946)5月〜昭和23年(1948)11月。
死刑執行7人。
インドのパール判事は、唯一の国際法の専門法律家として当該裁判に参加し、被告全員に無罪判決を出します。また、反対意見書を法廷に提出します。
ニュルンベルク裁判と東京裁判の共通点として、遡及法で勝者が敗者を断罪した点が問題視されています。
米国から選任された日本側の弁護人が、日本を弁護する為に来日しました。
彼等の大半は、枢軸国・日本の弁護を断りましたが、その中で、嫌々ながら日本行きの決まった弁護団が東京裁判にやって来た訳です。
米国人弁護人は、弁護する為に、日本の戦争経緯を調べていきます。
すると、日本は悪くなかったと気づき始めるのです。
彼等は、突如として日本の弁護に燃え始めます。
これは、東京裁判の中でも注目に値する出来事でした。
例えば、デービット・スミス弁護士は、裁判所に対し、広田弘毅元総理の弁護を担当しましたが、証人尋問の際「不当な干渉」だと抗議しています。
この抗議に対し、ウェッブ裁判長は「法廷を侮辱した」として、スミスに訂正を求めました。
しかし、スミス弁護士は、そんな言葉は米国で普通に使われている事だからと言って、裁判長の要求を拒否します。
その結果、スミス弁護士は解任されます。
それでも、スミスは法廷の外で広田被告と弁護団の為に尽力したと言われます。
●南京事件の弁護
南京大虐殺の反対尋問でも、米国人弁護人が尽力します。
米国側の証人が反対尋問を受けます。
証人は、マギーと言う米国人牧師です。
南京市街の安全地区にいて、日本軍の大虐殺を目撃したと言う人物です。
弁護人がマギーに尋ねます。
「あなたご自身は何人が虐殺されているのを見ましたか?」
「一人だ」
「どう言う状況で殺されていましたか?」
「安全地区に入り込もうとした支那人の青年がいた。それを日本兵が止まれと言った。止まらないで走ったので青年は撃たれた」
これが大虐殺の光景です。
大虐殺で殺された人数が一人だった❓
この後も、南京大虐殺に関わるマギー牧師の証言は続きます。
その結果、マギー牧師の証言内容は殆どが伝聞を根拠としたものだと言う事が分かってきます。
●人道に対する罪での口頭弁論
日本に「人道に対する罪」が問われた際、米国人弁護人はこう言いました。
「原爆を作らせた人間、原爆を運ばせた人間、原爆を落とさせた人間が誰なのか皆分かっている。それなのに、日本を裁く権利があるのか」と言う趣旨の発言をしています。
こうした光景を見ていたマッカーサーは「まずいな」と思った事でしょう。
しかし、東京裁判は連合国がマッカーサーに一任したものです。
一任されたマッカーサーは、国際法によらない自らの法、マッカーサー条例を根拠に日本を裁きました。
ですから、東京裁判の結論自体がマッカーサーの結論そのものなのです。
■マハトマ・ガンジー暗殺
昭和23年(1948)1月30日死去。享年78歳。
インド独立の父。弁護士で宗教家で政治指導者。
当時、英国植民地だったインドで、祖国の独立運動に加わり、インド国民会議の一員として非暴力不服従運動を展開し、やがてインド国民の指導者となっていきます。
ww2当時のガンジーは、日独伊三国同盟を結んでいた日本には、批判的でした。
ガンジーは、ヒンズー教原理主義者の若者に、群衆の中で射殺され、帰らぬ人となりました。
後にガンジーの誕生日は、ガンジー記念日と呼ばれ、インドの国民の祝日となります。
■済州島四・三事件
独立間もない韓国で勃発した、済州島民と韓国軍、韓国警察との間で起きた李承晩政権による大粛清事件。
昭和22年(1947)3月に、韓国側警察が李承晩体制の抵抗分子と見た済州島民数人を射殺した事がきっかけとなり、昭和23年(1948)4月3日、済州島民全体が武装蜂起し反乱、韓国当局と激突します。
李承晩政権は、済州島民を北のシンパ、容共派と見なしたのです。
実際、北の金日成が送り込んだ労働党が島内で煽動していた事が囁かれます。
反乱は一過性のものではなく、昭和32年(1957)まで続きました。
結果、昭和32年までに島民達は、推定8万人が大虐殺され、推定20万人から25万人が済州島から日本に逃れて密航したとされます。
事件前の済州島人口は約28万人、事件終息後(昭和32年)は、約3万人と激減しています。
朝鮮戦争時の密航者を前者の25万人に加算すると、過小でも推定40万人が戦後日本に密航していたと言われています。
済州島は、朝鮮史から見て、歴史的に権力闘争に負けた両班や、罪人の流刑地の側面もあり、韓国本土からの差別対象とされ、又、島の経済は困窮していた為、日韓併合時代から継続した日本への密航者が数多く存在しました。
戦後日本の在日の殆どが、済州島出身者だと言われます。
その中には、孫正義氏の父親やマルハンの会長・韓昌祐(ハン・チャンウー)もいました。
済州島四・三事件の詳細は、支那中共の天安門事件がそうである様に、今も韓国政府によって、その事実、詳細は歴史の闇に閉ざされたままです。
To Be Continue
乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
出典:流転の戦後日本vol.3参照