・・The XX Files 20th.
Please Don't Korea❗️
Truth ・・真実は動き始めた
Han-nichi is Never Over⁉️
This is a Fact
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
Sub Title "Back To 戦後 Beginning"
We are Sumer-Japanese.Departure.
(FunnyBomb).
■GHQ指令・皇室財産凍結、皇族特権廃止、旧皇室典範廃止
昭和20年(1945)11月、GHQ指令「皇室財産凍結に関する指令」。
昭和21年(1946)5月、GHQ指令「皇族の財産上その他の特権廃止に関する指令」。
これらにより、現在、陛下をはじめとする皇籍に残る皇族を除いた11宮家51人の皇族の方達は、終戦前まで保有していた財産を大幅に国庫に移された為、存続が不可能となり、東久邇宮稔彦総理が内閣退陣後、真っ先に昭和天皇に皇籍離脱を上奏した事を契機に、続々と他の旧皇族も皇籍離脱を表明しました。
これらの動きは、旧皇族の自主的な判断でしたが、明らかに天皇制廃止、皇室弱体化を狙ったGHQ指令の効力によるものです。
昭和22年(1947)5月、GHQ「皇室典範」制定。同時に旧皇室典範廃止。
旧皇室典範は、明治憲法と共に「典範」と呼ばれていました。
旧皇室典範は、明治憲法と同列の位置付けにありましたが、現・皇室典範は、憲法下の一規定と言う立場となり、旧皇室典範が犯すべからずの正典だったのに対し、議決されれば、いつでも改正する事の出来る法律の一つとなりました。
■現在の皇族
令和2年(2020年)4月現在の皇族は、陛下をはじめとして以下の通りです。呼称、敬称の綴り方が合ってるかは定かではありません。
難しい事は神学者に問合せ下さい。
【1】徳仁(ナルヒト)天皇陛下(昭和35年(1960)2月23日生。称号:浩宮)、【2】雅子皇后陛下(旧名:小和田雅子、昭和38年(1963)12月9日生)、【3】敬宮(トシノミヤ)愛子内親王殿下(平成13年(2001)12月1日生)、【4】明仁(アキヒト)上皇陛下(昭和8年(1933)12月23日生。称号:継宮ツグノミヤ)、【5】美智子上皇后陛下(旧名:正田美智子、昭和9年(1934)10月20日生)、【6】秋篠宮文仁(アキシノミヤ・フミヒト)親王殿下(昭和40年(1965)11月30日生。称号:礼宮アヤノミヤ)、【7】文仁親王妃紀子(フミヒトシンノウヒ・キコ)殿下(旧名:川嶋紀子、昭和41年(1966)9月11日生)、【8】眞子内親王殿下(平成3年(1991)10月23日生)、【9】佳子内親王殿下(平成6年(1994)12月29日生)、【10】悠仁(ヒサヒト)親王殿下(平成18年(2006)9月6日生)、【11】常陸宮正仁(ヒタチノミヤ・マサヒト)親王殿下(昭和10年(1935)11月28日生。称号:義宮ヨシノミヤ)、【12】正仁親王妃華子(マサヒトシンノウヒ・ハナコ)殿下(旧名:津軽華子、昭和15年(1940)7月19日生)、【13】(三笠宮)崇仁親王妃百合子(タカヒトシンノウヒ・ユリコ)親王殿下(旧名:高木百合子、大正12年(1923)6月4日生)、【14】(三笠宮)寛仁親王妃信子(トモヒトシンノウヒ・ノブコ)親王殿下(旧名:麻生信子、昭和30年(1955)4月9日生)、【15】(三笠宮)彬子(アキコ)女王殿下、昭和56年(1981)12月20日生)、【16】(三笠宮)瑶子(ヨウコ)女王殿下(昭和58年(1983)10月25日生)、【17】(高円宮)憲仁親王妃久子(ノリヒトシンノウヒ・ヒサコ)殿下(昭和28年(1953)7月10日生)、【18】(高円宮)承子(ツグコ)女王殿下(昭和61年(1986)3月8日生)。
総勢、4人の陛下を含めて僅か18人です。
■ 公職追放令公布
昭和21年(1946)1月4日。
公職追放令は、サンフランシスコ講和条約締結日(昭和27年)をもって廃止される迄に、凡そ20万人の公務員、準公務員等が強制解雇の罰を負います。
公職追放は、昭和21年(1946) 1月にGHQの所謂、公職追放令により施行された占領政策で、追放解除までの期間、実に約20万人の戦争に関わった公務員、政治家、旧軍人及び有力企業、軍需企業の職員などが、GHQから右傾派と判断され、職場を奪われます。
これにより、国内の保守層は一掃されました。
この政策の狙いは、日本国を愛する日本人から愛国心を削除し、処罰を与える事が目的です。
政界で追放指令を受けた主なところでは、石橋のほか、緒方竹虎、岸信介、河野一郎、鳩山一郎、東久邇宮稔彦、町田忠治、三木武吉、小林一三、井野硯哉、平沼騏一郎、石井光次郎らがいます。
昭和21年(1946)から昭和27年(1952)までの最終的な追放令廃止まで、それぞれ個別の日付に追放指令と解除がなされ、追放期間は各人によって異なりました。
殆どの者は、追放令廃止となる前に追放解除されましたが、岸信介を含む5,000人余りの人は追放令廃止日を迎えてから追放解除となりました。
■日本の代表的家電メーカー・ソニー創業
昭和21年(1946)5月7日設立。
日本を代表する大手家電メーカー。
現在では、家電以外にも、生命保険、銀行、放送、出版、不動産、芸能等々を展開する多角経営に乗り出しています。
代表作の一つに昭和54年(1979)7月1日に発売された、ポータブル・テープレコーダー「ウォークマン」があり、世界中で爆発的ヒット作となります。
しかし平成17年(2005)、米国人が社長兼会長兼CEOに就任してから、ソニーの業績は低迷を続ける事になります。
■日本国憲法草案、国会上程
昭和21年(1946)6月26日。
時の政権は幣原内閣です。
マッカーサー新憲法草案は、日本政府自らの草案として国会に提案されました。
マ元帥の声明が付け加えられていました。
『今、国会に提案された政府憲法草案は、日本の文書であり日本国民の為のものである』と。
それから74年後の現在・・・私達は、一度も公式の戦争を布告していません。
朝鮮戦争、ベトナム戦争にも参戦していません。湾岸戦争、中東戦争然りです。
そして、一度も憲法を改正してません。
日本と同じ枢軸国、独国は、戦後60回も憲法改正しているにも関わらずです。
こう言うと、エセ平和主義者、奇形左翼9条の会は、独国と日本は事情が違うから、比較する事は出来ないと言う屁理屈を喚きます。
しかし、それこそが東京裁判史観であり、WGIPの洗脳が解けていない証拠であり、9条があるから、軍隊も持たず平和でいられると信じている証拠です。
話を戻しますが、新憲法(今の憲法)には二つの大きな特徴がありました。
第一には、日本史上、前例のなかった人権、市民権の保障です。
GHQは、国民の人権をめぐって日本政府が示した態度を次の様に批判しました。
「日本政府は、国民が自由を乱用するのではないかと恐れ、行き過ぎを防止する法的措置が取られなければ、行政が麻痺してしまうのではないかと心配ばかりしている」と。
日本人は、乱用出来る程の自由を手にした事はなかったのです。
●第9条
第二の特徴は、「戦争放棄」の第9条です。
特徴と言うより、最早マッカーサー新憲法の基礎となっています。
敗戦直後の虚脱状態にあった日本人から、平和と言う甘い言葉を使い、「愛国心」と「誇り」を誘い出し、マッカーサーは素手で扼殺しました。
その死体が第9条です。
マッカーサーは、自分には責任はないと何度か釈明しています。
マッカーサーが、トルーマンに解任された年、昭和26年(1951)5月5日、米議会の公聴会で、9条は「幣原総理が書き入れた」と証言します。
マッカーサーが、9条と自分との関わりを否定しようとしたのは、自分の名声にとって不都合な現実が次々と出てきたからでした。
冷戦が激化し、支那が共産主義革命を成功させ、ソ連が原爆実験に成功し、朝鮮が今にも戦争の危機を迎え、あたかもアジア全土が共産主義の下に屈服させられるのではないかという情勢が目の前に展開した為で、吉田総理に命令して警察予備隊を創設し、共産主義者に対して国防・自衛をする様にという指令まで出しています。
9条がある限り「戦後レジーム」は終わりません。
日本では、軍事組織である自衛隊は、災害ボランティア団体であって、軍隊ではありません。
災害ボランティアには無用の戦闘機、戦艦、ミサイルを所有しているにも関わらず軍隊ではないのです。頭がおかしいのでしょうか。
■大宰相・吉田茂総理大臣就任
任期:昭和21年(1946)5月22日~昭和22年(1947)5月24日。
昭和21年4月の総選挙の結果、第一党になったのは、鳩山一郎率いる自由党でした。
当然の成り行きとして鳩山が総理に就任する筈でしたが、鳩山は、GHQによって組閣直前に公職追放されます。
鳩山内閣成立と思っていたところで、いきなり公職追放と言う命令が下ったのは日本人にとっても大変なショックだったそうです。
そこで鳩山は、外相だった吉田茂に自由党総裁を引き受けてほしいと頼みました。
最も自由党総裁に就任したものの、吉田はいわば雇われ党首、外様の総裁で、党内には三木武吉、大野伴睦、星島二郎、広川弘禅といった反吉田の面々がいましたから、党運営にはかなり苦労する事になります。
吉田がワンマンと言われる様になったのは、「吉田スクール」と呼ばれる子飼いの政治家達を擁して完全に自由党を掌握してからの事です。
●強運の大宰相・吉田の経歴
明治11年(1878)、高知県宿毛市(スクモ)出身で自由民権派の闘志、竹内綱(タケウチノツナ)の五男として生まれ、父親の親友で横浜の貿易商「ジャーディン・マセソン商会」の支店長をしていた吉田健三の養子となります。
因みにジャーディン・マセソン商会は、明治維新の影のキーパーソンと目され、あの坂本龍馬の活動を裏で援護していたスコットランド商人・トーマス・ブレイク・グラバーが在籍していた大手の貿易会社です。
養父が早世した事により、吉田は11歳にして莫大な遺産を相続します。
自宅には25畳の勉強部屋を持ち、馬に乗って通学したと言われます。
養母は、江戸時代の有名な儒者、佐藤一斉の孫娘でしたから、極めてしっかりした婦人で、少年吉田はこの人から厳しい教育を受けたと言われています。
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出典:満州国の遺産(黄文雄著)、日本の戦争解剖図鑑(拳骨拓史著) 真実の満洲史 (宮脇淳子著) 支那・韓国が死んでも隠したい❗️本当は正しかった日本の戦争(黄文雄著)、通州事件 日本人はなぜ虐殺されたのか(藤岡信勝・三浦小太郎著)、ノモンハンの夏(半藤一利著)、Wikipedia、韓民族こそ歴史の加害者である(石平著)、天才戦略家としての肖像・石原莞爾(佐治芳彦著)、かくて昭和史は甦る(渡部昇一著)、国破れてマッカーサー(西鋭夫著)、日本が戦ってくれて感謝しています2(井上和彦著)、日本国紀(百田尚樹著)、ユダヤ人の歴史(ポール・ジョンソン著)、戦後七十年の真実(渡部(watanabe)昇一著)、平成史(片山杜秀、佐藤優著)
乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)