・・『Zipangu』Is Japanese Big Picture First. w
Please Don't Korea❗️
Truth ・・真実は動き始めた
Zipangu Independence Banzai⁉️
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
Sub Title "One More Time ・Back To 近代 Beginning With You"
(FunnyBomb).
■中国の旅(本多勝一著)の記述
戦後日本。
本多勝一氏は、アカヒ新聞の記者で、日本軍将校の百人斬りや、南京大虐殺の捏造報道を記事にした人物です。
共産党の機関紙、新聞赤旗の愛読者でした。
著書の中国の旅には、「ここに至るまでに、すでに膨大な数の住民が殺されています」と書いています。
日本軍が入城すると、10万人以上いた蒋介石軍の高級将校は家族を連れ、また主な将校らも北側の2つの門から逃げ出し、門を閉め外から錠をおろして遮断。
そこに大衆が押し寄せると、「日本軍は機関銃・小銃・手榴弾などを乱射した。飢えた軍用犬も放たれ、餌として食うために中国人を襲った。二つの門に通ずる。大通りは、死体と血におおわれて地獄の道と化した」。
続けて、「虐殺は大規模なものから一人、二人の単位まで、南京周辺のあらゆる場所で行なわれ、日本兵に見つかった婦女子は片端から強姦を受けた。紫金山でも2000人が生き埋めにされている。こうして歴史上まれに見る惨劇が翌年二月上旬まで2カ月ほどつづけられ、約30万人が殺された」と語りました。
全くの捏造です、全て支那人の犯行を日本軍によるものと捏造した典型的な責任転嫁、ミラーリングです。
「週刊文春」(H26.9.4号)が「朝日新聞 売国のDNA」で、「本多氏は事実とかけ離れた『南京大虐殺30万人説』を流布させた人物だ」として、上述の「歴史上まれに見る惨劇」を引用したうえで、藤岡信勝氏(通州事件の著者)の「この記事は本多氏が中国共産党の案内で取材し、裏付けもなく執筆したもので、犠牲者30万人などは、まったくのデタラメです」とのコメントをつけています。
こうした反日プロパガンダを肯定する勢力の中には、戦後のGHQもいた事を忘れてはならないでしょう。
連続ラジオ放送で、南京大虐殺を流布していたのですから。
●言葉巧みな歴史修正捏造
虐殺の被害者数30万人、20万人、民間人の被害者数10万人、2万人・・・。
30万人説、20万人説は、主に大陸人、半島人、一部の奇形左翼が主張する場合が多く、これには日本側の左翼を除く研究者も完全否定しています。
日本側の主張の中で一番多いのは、被害者0人説かも知れません。
被害者0人説の条件は、憎むべき支那便衣兵は何千人処刑されても死者数に含めない、支那人同士の争いで死亡した死者数も含めない、日本軍が南京市に入った12月7日より以前の被害者数は含めない、と言う事になります。
私は、「被害者0人説」を支持します。
この事件に関しては、巧妙で言葉巧みな30万人説、10万人説等を突きつけられても、良心に訴えられたとしても、決して信じてはなりません。
捏造を認めると言う事は、何より、国家の否定であり、英霊とその遺族への侮辱行為に他ならないからです。
諦めない事、忍耐力が肝心です。
平成26年(2014)8月に起きた「アカヒ新聞の従軍慰安婦捏造報道修正」も、事件から数十年も経過してから、アカヒ新聞が修正するなんて、到底考えられない事でしたが、それも諦めない心と忍耐力の賜物だったのです。
■石原莞爾少将左遷
昭和12年(1937)9月、石原は関東軍参謀副長に任命され、懐かしの満洲新京に赴任しました。
その頃の満洲は、石原が日本にいた間に、2キ3スケ(東條英機、星野直樹、鮎川義介、岸信介、松岡洋右)の台頭や愛新覚羅溥儀の満洲国皇帝就任などにより、石原が理想としていた「五族協和」「王道楽土」の世界とは大きく乖離していました。
直属の上司は、参謀長の東條で、2人の間には既に深い確執があり、又、石原は持病の膀胱炎が悪化していました。
東條は、対峙するライバルを徹底的に蹴落とす習性があり、憲兵を使って24時間体制で監視するなど、石原にも同じ圧力をかけました。
石原は、持病の悪化や絶望感を理由に、予備役仰付願と病気療養の休暇願を提出して、関東軍参謀本部を辞任しました。
昭和13年(1938)12月、石原は舞鶴要塞司令官と言う予備役手前の閑職に左遷させられ、満洲から帰国した石原は、そのまま板垣征四郎の計らいで東大病院に入院しました。
当時の石原将軍の日米戦争の見方は、
「石油がないから東條達は、南方インドネシアを取ろうと言うが、石油がない事は最初から分かっている事である。
石油がなくて戦争が出来ないと言うなら、即刻辞めるべきである。
また、海軍には南方を占領してもその地域を防衛する作戦計画がない。
従って、南方の占領地域を確保し続けようとすれば、本土防衛も不可能となる。石油は米国と妥協すれば輸入出来るのに、それもしないで石油の為に日本の運命を賭けて戦争を行う馬鹿がどこにいるか」
などとして、東條体制の政府を批判し、米英との開戦の中止を強く進言しました。
■ノモンハン事件
昭和14年(1939)5月11日交戦、9月16日集結。
当時の日本が介入した満洲国とモンゴル国境付近で勃発した戦闘です。
日本軍の戦力約5万9千人、対するソ連・モンゴル軍約23万人。
死傷者は日本軍約1万9千人、ソ連軍・モンゴル軍約2万6600人。
ノモンハンとは、満洲国内にあった、外蒙古国境側に面した土地の地名です。
ノモンハン周辺は、草の丈が高い、上等な牧草が生い茂った地帯で、放牧する蒙古人が落ち合っていた憩いの場所でした。
辺りの井戸水は、人にも動物にも貴重な真水が湧き出していました。
ホルンバイルには、その名の起源でもあるホロン湖とバイル湖を始め、幾つかの湖沼がありましたが、それらは全て塩水でした。
対して、ハルハ河、ホルステン河は透明な真水が流れています。
満洲事変以来、満洲国が成立してからは、そのハルハ河が国境線となり、ノモンハン付近は満洲国領土となっていました。
ノモンハンの国境警察分駐所には、警察5人が配置され、満洲国側が厳しく警備していました。
●ノモンハン事件の原因
ノモンハンの貴重な水源と牧草を必要としていた外蒙古側の遊牧民は、その事を認められず、しばしば家畜を追ってハルハ河を越えて不法入国しました。
この時、少数の蒙古軍も護衛に着いていました。
これは、満洲国側から見れば不法入国であり、軍が随行していれば武力行使と判断せざるを得ません。
こうした事から、当時牧草と水の奪い合いを発端に国境間でしばしば戦闘が起きていました。
昭和14年(1939) 5月4日、蒙古兵がバルシャガル高地を偵察していたので、満洲国側警察隊が包囲攻撃して、蒙古兵2人を逮捕しました。
5月10日、ハルハ河を巡回中の満洲国警察隊は外蒙古側から突然、銃撃を受け応戦となります。
これらの動きは、外蒙古側から見れば、元々蒙古領土と言う概念がある為、5月4日の日本軍の戦闘は不法な攻撃であり、5月10日の越境も満洲国側に非があったと言う事になります。
しかし、満洲国軍は、関東軍にこの事を訴え、蒙古側はソ連軍に満洲国側の非を訴えました。
人口約80万人の蒙古は、大正13年(1924)以来、ソ連の共和国の様相を呈していました。
昭和11年(1936)3月12日、ソ蒙相互援助議定書が締結され、それ以来、外蒙古は完全にソ連の保護国となり、蒙古は、ソ連から見て日本帝国主義の防波堤となっていました。
昭和14年(1939) 5月11日、越境に関わって更に戦闘が起き、今度は死者が出ました。
こうして、両者の猜疑心、恨みが次第にエスカレートし大規模な戦闘の下地が作られていきました。
5月12日、外蒙古軍は700人の軍勢で国境を越えて侵入してきました。
満洲国軍は、ただちに関東軍に出撃の要請を電報します。
5月15日、知らせを聞いた日本軍は満洲国軍に国境警備を任せると共に、戦闘機を出動させ、上空から外蒙古側領土に攻撃を開始。
ノモンハン上空から約52発の爆弾を投下し、低空降下で機銃掃射を加えました。
怒ったのは、ソ連軍でした。外蒙古軍に任せておけなくなったソ連軍が、今度は矢面に立つ決意を固めていきます。
5月27日、日満軍、ソ蒙軍両軍が、事実上の国境、ハルハ河を挟んで戦闘準備に入りました。
日本軍は、いつもの越境に対する小競り合い程度の戦闘とタカを括っていました。
しかし、いざハルハ河沿に陣形を整えると、対岸に陣を構えたソ蒙軍は、戦車、砲兵、騎兵が準備し大部隊が日本軍の攻撃を待ち構えていました。
戦闘が開始されます。
ソ蒙軍砲兵の集中砲火と戦車隊の進軍、更に急行したソ連軍の狙撃連隊により、山県(ヤマガタ)連隊長率いる日本軍は背後からの攻撃を受けほぼ全滅します。
5月30日、日本軍は歩兵、機関銃、速射砲、二中隊が増援され、辻参謀と共に現場に援軍部隊が到着します。
日本軍は、戦場の遺体を回収した後、撤収する作戦を遂行し始めます。
日本軍兵力は、約1200余人、死傷者・行方不明者約250余人。
これが第一次ノモンハン事件です。
●第二次ノモンハン事件
昭和14年(1939) 7月1日、日ソ両軍は、第一次ノモンハン事件よりも大規模な戦闘の陣容を整えました。
特にソ連軍は、日露戦争の敗因を綿密に分析し戦訓とした新たな戦術を立案していました。
又、ソ連軍は東京に潜伏させていたスパイ・ゾルゲなどからの報告も受け、日本軍が今現在、ソ連に対し大戦争の兵力を整える時期にはない事も折り込み済みでした。
スターリンは慎重でした。
実行的な作戦下で、確実な戦術でしか軍を動かしませんでした。
新生ロシアの威信を賭けていたのでしょう。
逆に、日本陸軍の方が事態を楽観視していたのです。
兵はリュックサックに乾パン1食、米飯1食、弾薬、衣類、腰に銃剣、小銃弾30発、後ろに60発、鉄兜、防毒マスク三八式歩兵銃、手榴弾等、総重量約40キロを装備し、日中は、最高気温40度、夜間には霜が降る程、気温低下するノモンハンが戦場です。
7月1日、全軍1万5千人の日本軍は、闇に紛れて進撃します。
冷気が立ち込めています。夜が明け、気温は一気に上昇し灼熱地獄に変わります。
約80輌の戦車部隊が頼りになります。
シャクジン湖と言う湖付近で戦車隊同士の交戦が始まります。
日本軍が優勢でした。日本軍は、高地を占領します。
また、夜が訪れます。
ノモンハンに激しい雨が降り始めます。
連続した雷鳴、台地に突き刺す様な豪雨が相まって戦車のエンジン音をかき消します。
これは、進軍するにも有利でした。
目が眩む様な稲妻がひっきりなしに光っています。
日ソ両軍の戦車部隊は、夜間を徹して各々猛進しました。
日本軍の夜間の追撃方式による攻撃は、一応の戦果を上げました。
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乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
出典:vol.1参照