The XXX Files ・・・20th .
Future Generation !
真実と闘え・・・
Zipangu Independence Banzai⁉️
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
Sub Title "One More Time ・Back To 近代 Beginning With You"
(FunnyBomb).
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■盧溝橋事件
満洲国成立後、支那では国共合作が行われ、抗日戦線が激しさを増していました。
遡る明治43年(1910)の北清事変(義和団の乱)後に締結された北京議定書で、清国は各国に北京での駐屯を認めていました。
辛亥革命により清国が中華民国に変わっても、日本軍は駐屯していましたが、北京郊外の盧溝橋の両岸には、日支両軍が駐留していました。
昭和12年(1937)7月7日午後10時40分頃、日本軍の演習に反応し、支那軍が発砲します。
これをキッカケに両軍の武力衝突が勃発しました。
7月9日になり、停戦協定が始まり、7月11日午後8時頃、ようやく停戦協定が締結されました。
戦死者は日本軍約16人、支那軍約210余人。
支那軍からの謝罪、盧溝橋からの支那兵撤兵が合意されました。しかし、その直後から日支双方の大動員が開始され、北京近郊の各所で武力衝突が始まりました。
●盧溝橋の停戦協定、舞台裏に石原がいた
昭和12年(1937)7月、盧溝橋事件勃発を聞いた時、石原莞爾はその不拡大に奔走しました。
石原の努力が功を奏したのか、日支両軍は撤退協定を結び、若干の混乱を残しつつ、双方撤退を始めたのです。
日本の中央では、事態悪化を危惧して、北平(北京)、天津地区の在留日本人保護の為、必要兵力を増派する事としました。
支那の戦場と日本国内の判断は明らかな温度差がありました。
日本国内では、現地の停戦協定に反対でした。
東條派が動き始め、石原莞爾は省内で孤立します。
石原莞爾の直属の上司は、対立する東條英機でした。
東條と言う人は、石原が参謀本部作戦課長時代、関東軍憲兵司令官であり、石原が作戦部長時代は関東軍参謀長として、石原を苦境に陥れた張本人でした。
東條と言う人は、極めて優越欲求の傾向が強い人間だったと筆者(佐治氏)は指摘します。
■近衛総理の罪
石原は、諦めませんでした。最後の力で「一か八かのカード」を切ります。
その内容は、北支(北京)の日本軍は、山海関(支那・満州国の国境付近)まで撤退し、不戦の意を示し、近衛総理自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ、石原もそれに同行すると言うものでした。
近衛総理は、石原のこの提案を拒否しました。
いえ、厳密には、近衛は最初、日支会談に乗り気で支那行きの飛行機もチャーターしていたにも関わらず、直前になって臆病風に吹かれキャンセルしたのです。
近衛総理は、重要な局面で優柔不断な総理でした。
石原は次の様に激怒したと横山臣平(後の中将)は証言します。
「2000年にも及ぶ皇恩をかたじけのうして、この危機の優柔不断では、日本を滅ぼすものは近衛である」と。
角田順少佐は、こう言いました。
「支那事変が始まった時、石原が極力それを局地的に解決しようとして努力した事は、余りに有名だ。と同時に、それをもう一歩踏み込んで、実力を行使してでも拡大を阻止しなかった事が、石原の終生の罪禍になったとも言える」。
■通州事件
昭和12年(1937)7月29日 木曜日。
北京から東に20キロ程の町、河北省通州で勃発した日本人大虐殺事件。
本来なら、現地日本人居留民の安全を確保する任務を帯びていた支那軍3千人の手によって、家々から引きずり出された日本人225人(内、朝鮮系日本人111人)が、公衆の面前で全裸にされ、撲殺、強姦、陰部刺突、眼球えぐり取り、内臓引き出し、集団銃殺等、Mutilation(ミューティレーション)の慣習のある大陸人ならではの、むごたらしい猟奇的大量殺人事件です。
●通州事件詳細
昭和12年7月29日木曜日、午前0時。
支那軍保安隊3千人が、日本軍不在時に武装蜂起を起こし、城門を閉鎖。まずは、電話線を切断。
続いて、午前3時。日本軍人32人を奇襲し惨殺。
支那軍保安隊は、軍服を着ていません。学生服を着ていたのです。便衣兵です。
日本人居留民が支那軍便衣兵によって、惨殺される一部始終は、支那人住民によって取り囲まれ見世物になっていました。
見物していた支那民間人は、誰一人として止めようとしませんでした。
この憎むべき、支那軍の日本人居留民に対する大虐殺事件の唯一の救いは、生存者が存在した事です。
残念ながら、生存者の中には、支那軍の犯行を目撃した証人はいませんでした。
しかし、目撃者、しかも日本人生存者の証言が、実はありました⁉️
●日本人女性の虐殺
目撃者は、佐々木と言う日本人だそうです。
以下、現実の生存者・佐々木氏の残した言葉です。
「午前9時頃、銃声が止むと、誰かが日本人居留区の女子供が殺されていると叫ぶ声が聞こえた。
支那人の夫と一緒に現場に近づくと、生臭い血の臭いがしてきた。
日本人の家から1人の娘が引きずり出されてきた。家の中に隠れていた所を支那便衣兵に見つかったと言う。
多数の支那人が取り囲む中、便衣兵の1人が日本人女性を殴り、服を破り捨て、公衆の面前で全裸にした。
と、その時、1人の日本人男性がパァっと飛び出し、その娘の上に覆いかぶさる様に身を投げ出した。恐らく、この日本人女性の父だったと思われる。
すると、支那便衣兵が、いきなりこの男性の頭を銃で力一杯殴った。
グシャッ❗️と言う音が聞こえた。
その後、支那便衣兵は日本人男性を踏みつけ、剣で腹を突き刺し殺した。
日本人女性は、全裸のままです。
恐怖のあまり動く事が出来ません。
支那便衣兵が、その女性に近づき、女性の脚を大きく広げました。
そして、公衆の面前で事を始めたのです。
支那人とはいえ、沢山の人達が見ている目の前で、最悪の事をしようとするのですから、これは最早、人間のする事とは言えません。
ところが、この娘さんは、今迄一度もそうした経験がなかったのでしょう。
どうしても、事が上手くいかなかったのです。すると、支那便衣兵3人がかりで、1人の日本人女性の脚を広げられるだけ広げるのです。
そして、便衣兵の持っていた銃剣の切っ先を、その女性の陰部に突き刺したのです。
私は、夫とその20m離れた所に立っていたので、それからの詳細を見る事は出来ませんでした。と言うより、とても見る事が出来なかったのです。
私は、夫の手にしっかりとすがっておりました。
すると、「ギャーーーッ❗️」と言う、悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。
支那便衣兵が、ニタニタと薄笑いを浮かべながら、娘さんの女性自身をえぐり取っていたのです。私の体は、ガタガタと音を立てる程震えました。
見てはいけない、見まいと思うけれど、どうしても目が閉じられませんでした。
ガタガタと震えながら見ていると・・・
今度は娘さんの腹を銃剣で縦に切り裂くのです。それから娘さんは、剣で首をはねられたのです。
娘さんの生首は、さっき捨てた男の死体の所にポイッと捨てられました。
ゴロゴロと生首は転がり、男の死体の所でピタッと止まりました。」
●通州事件の原因に関する通説
何故、この様な惨殺事件が起きたのか❓
まず、この事に関する通説を確認します。
小学館と言う会社があります。
その会社が出版した本があります。
"日本大百科全書(ジャポニカ)" です。
その中に書かれている通州事件の項を要約すると、要するに日本人大量虐殺の原因は"日本軍の華北占領に対する支那軍の抵抗事件" と言う事になります。
個人攻撃とかではなく、事実そう書かれているのです。
つまり、日本軍が盧溝橋事件の報復として出撃させた戦闘機が、通州に駐屯していた支那軍服保安隊を間違って空爆(誤爆)した事が原因で起こった。だから惨殺された事は仕方ない・・とも読み取れます。
・・・つまり、昭和、平成の戦後歴史学の通説は、支那保安隊の通州事件の犯行は、100%正当化されていると言って差し支えありません。
●通州事件の原因は誤爆が理由ではなかった
通州事件の日本人大量虐殺の犯行を100%正当化する日本軍の「誤爆説」は、勿論、高度情報化社会となった令和の時代、間違った理論である事は言うまでもありません。
以下、その理由です。
❶通州事件の前から、日本人への殺意を煽る工作が行われていた事。(細かい事象は言挙げしません)
❷支那軍による昭和12年(1937)7月29日 の武装蜂起は、通州だけで起こった訳ではないと言う事。つまり、天津、塘沽(トウコ)、軍糧城(天津内)等で同時的に計画されていたのです。
よって、この事件は偶発的なものでなく、綿密に計画された「同時多発テロ」の可能性があったと言う事。
❸通州から天津に通じる道が、事前に50箇所も寸断されていた事。
救援隊が通州に入れない様に意図した事前工作と言えます。
❹支那保安隊が事前に日本人家族の戸籍調査をしていた事。調査された日本人家族は、全員襲われた事。
これらの事から、通州事件は、偶発的なものではなく、誤爆が原因でもないと言う事が出来ます。
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乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
出典:vol.1参照