近代日本への道9 | box03のブログ

box03のブログ

 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

 

The XXX Files ・・・20th .

Future Generation !

真実と闘え・・・

Zipangu Independence Banzai⁉️

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   Sub Title "One More Time Back To 近代 Beginning With You"

FunnyBomb.

image

 

Back To

 

盧溝橋事件

 満洲国成立後、支那では国共合作が行われ、抗日戦線が激しさを増していました。

 遡る明治43年(1910の北清事変(義和団の乱)後に締結された北京議定書で、清国は各国に北京での駐屯を認めていました。

 辛亥革命により清国が中華民国に変わっても、日本軍は駐屯していましたが、北京郊外の盧溝橋の両岸には、日支両軍が駐留していました。

 昭和12年(193777午後1040分頃、日本軍の演習に反応し、支那軍が発砲します。

 これをキッカケに両軍の武力衝突が勃発しました。

 79になり、停戦協定が始まり、711日午後8時頃、ようやく停戦協定が締結されました。

 戦死者は日本軍約16人、支那軍約210余人。

 支那軍からの謝罪、盧溝橋からの支那兵撤兵が合意されました。しかし、その直後から日支双方の大動員が開始され、北京近郊の各所で武力衝突が始まりました。

 

盧溝橋の停戦協定、舞台裏に石原がいた

 昭和12年(19377、盧溝橋事件勃発を聞いた時、石原莞爾はその不拡大に奔走しました。

   石原の努力が功を奏したのか、日支両軍は撤退協定を結び、若干の混乱を残しつつ、双方撤退を始めたのです。

   日本の中央では、事態悪化を危惧して、北平(北京)、天津地区の在留日本人保護の為、必要兵力を増派する事としました。

   支那の戦場と日本国内の判断は明らかな温度差がありました。

   日本国内では、現地の停戦協定に反対でした。

   東條派が動き始め、石原莞爾は省内で孤立します。

   石原莞爾の直属の上司は、対立する東條英機でした。

   東條と言う人は、石原が参謀本部作戦課長時代、関東軍憲兵司令官であり、石原が作戦部長時代は関東軍参謀長として、石原を苦境に陥れた張本人でした。

   東條と言う人は、極めて優越欲求の傾向が強い人間だったと筆者(佐治氏)は指摘します。

 

■近衛総理

   石原は、諦めませんでした。最後の力で「一か八かのカード」を切ります。

   その内容は、北支(北京)の日本軍は、山海関(支那・満州国の国境付近)まで撤退し、不戦の意を示し、近衛総理自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ、石原もそれに同行すると言うものでした。

   近衛総理は、石原のこの提案を拒否しました。

   いえ、厳密には、近衛は最初、日支会談に乗り気で支那行きの飛行機もチャーターしていたにも関わらず、直前になって臆病風に吹かれキャンセルしたのです。

   近衛総理は、重要な局面で優柔不断な総理でした。

   石原は次の様に激怒したと横山臣平(後の中将)は証言します。

   2000年にも及ぶ皇恩をかたじけのうして、この危機の優柔不断では、日本を滅ぼすものは近衛である」と。

   角田順少佐は、こう言いました。

   支那事変が始まった時、石原が極力それを局地的に解決しようとして努力した事は、余りに有名だ。と同時に、それをもう一歩踏み込んで、実力を行使してでも拡大を阻止しなかった事が、石原の終生の罪禍になったとも言える」。

 

通州事件

   昭和12年(1937729 木曜日。

   北京から東に20キロ程の町、河北省通州で勃発した日本人大虐殺事件。

   本来なら、現地日本人居留民の安全を確保する任務を帯びていた支那軍3千人の手によって、家々から引きずり出された日本人225人(内、朝鮮系日本人111人)が、公衆の面前で全裸にされ、撲殺、強姦、陰部刺突、眼球えぐり取り、内臓引き出し、集団銃殺等、Mutilation(ミューティレーション)の慣習のある大陸人ならではの、むごたらしい猟奇的大量殺人事件です。

 

通州事件詳細

   昭和12729木曜日、午前0

   支那軍保安隊3千人が、日本軍不在時に武装蜂起を起こし、城門を閉鎖。まずは、電話線を切断。

   続いて、午前3時。日本軍人32人を奇襲し惨殺。

   支那軍保安隊は、軍服を着ていません。学生服を着ていたのです。便衣兵です。

   日本人居留民が支那軍便衣兵によって、惨殺される一部始終は、支那人住民によって取り囲まれ見世物になっていました。

   見物していた支那民間人は、誰一人として止めようとしませんでした。

 

   この憎むべき、支那軍の日本人居留民に対する大虐殺事件の唯一の救いは、生存者が存在した事です。

   残念ながら、生存者の中には、支那軍の犯行を目撃した証人はいませんでした。

   しかし、目撃者、しかも日本人生存者の証言が、実はありました⁉️

 

日本人女性の虐殺

   目撃者は、佐々木と言う日本人だそうです。

   以下、現実の生存者・佐々木氏の残した言葉です。

   午前9時頃、銃声が止むと、誰かが日本人居留区の女子供が殺されていると叫ぶ声が聞こえた

   支那人の夫と一緒に現場に近づくと、生臭い血の臭いがしてきた。

   日本人の家から1人の娘が引きずり出されてきた。家の中に隠れていた所を支那便衣兵に見つかったと言う。

   多数の支那人が取り囲む中、便衣兵の1人が日本人女性を殴り、服を破り捨て、公衆の面前で全裸にした。

   と、その時、1人の日本人男性がパァっと飛び出し、その娘の上に覆いかぶさる様に身を投げ出した。恐らく、この日本人女性の父だったと思われる。

   すると、支那便衣兵が、いきなりこの男性の頭を銃で力一杯殴った。

   グシャッ❗️と言う音が聞こえた。

   その後、支那便衣兵は日本人男性を踏みつけ、剣で腹を突き刺し殺した。

   日本人女性は、全裸のままです。

   恐怖のあまり動く事が出来ません。

   支那便衣兵が、その女性に近づき、女性の脚を大きく広げました。

   そして、公衆の面前で事を始めたのです。

   支那人とはいえ、沢山の人達が見ている目の前で、最悪の事をしようとするのですから、これは最早、人間のする事とは言えません。

   ところが、この娘さんは、今迄一度もそうした経験がなかったのでしょう。

   どうしても、事が上手くいかなかったのです。すると、支那便衣兵3人がかりで、1人の日本人女性の脚を広げられるだけ広げるのです。

   そして、便衣兵の持っていた銃剣の切っ先を、その女性の陰部に突き刺したのです。

   私は、夫とその20m離れた所に立っていたので、それからの詳細を見る事は出来ませんでした。と言うより、とても見る事が出来なかったのです。

   私は、夫の手にしっかりとすがっておりました。

   すると、「ギャーーーッ❗️」と言う、悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。

   支那便衣兵が、ニタニタと薄笑いを浮かべながら、娘さんの女性自身をえぐり取っていたのです。私の体は、ガタガタと音を立てる程震えました。

   見てはいけない、見まいと思うけれど、どうしても目が閉じられませんでした。

   ガタガタと震えながら見ていると・・・

   今度は娘さんの腹を銃剣で縦に切り裂くのです。それから娘さんは、剣で首をはねられたのです。

   娘さんの生首は、さっき捨てた男の死体の所にポイッと捨てられました。

   ゴロゴロと生首は転がり、男の死体の所でピタッと止まりました。

 

通州事件原因する通説

   何故、この様な惨殺事件が起きたのか

   まず、この事に関する通説を確認します。

   小学館と言う会社があります。

   その会社が出版した本があります。

   "日本大百科全書(ジャポニカ)" です。

   その中に書かれている通州事件の項を要約すると、要するに日本人大量虐殺の原因は"日本軍の華北占領に対する支那軍の抵抗事件" と言う事になります。

 個人攻撃とかではなく、事実そう書かれているのです。

   つまり、日本軍が盧溝橋事件の報復として出撃させた戦闘機が、通州に駐屯していた支那軍服保安隊を間違って空爆(誤爆)した事が原因で起こった。だから惨殺された事は仕方ない・・とも読み取れます。

・・・つまり、昭和、平成の戦後歴史学の通説は、支那保安隊の通州事件の犯行は、100%正当化されていると言って差し支えありません。

 

通州事件原因誤爆理由ではなかった

   通州事件の日本人大量虐殺の犯行を100%正当化する日本軍の「誤爆説」は、勿論、高度情報化社会となった令和の時代、間違った理論である事は言うまでもありません。

 

   以下、その理由です。

通州事件の前から、日本人への殺意を煽る工作が行われていた事。(細かい事象は言挙げしません)

支那軍による昭和12年(1937729 の武装蜂起は、通州だけで起こった訳ではないと言う事。つまり、天津、塘沽(トウコ)、軍糧城(天津内)等で同時的に計画されていたのです。

   よって、この事件は偶発的なものでなく、綿密に計画された「同時多発テロ」の可能性があったと言う事。

通州から天津に通じる道が、事前に50箇所も寸断されていた事。

   救援隊が通州に入れない様に意図した事前工作と言えます。

支那保安隊が事前に日本人家族の戸籍調査をしていた事。調査された日本人家族は、全員襲われた事。

   これらの事から、通州事件は、偶発的なものではなく、誤爆が原因でもないと言う事が出来ます。

 

To Be Continue

 

image

乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 

 

出典:vol.1参照