近代日本への道5 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・『ZipanguIs Japanese 

Big Picture First. 

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

 

   2020年(R2)、Big ChinaSmall ChinaSpecial Asia3国は呪詛、憎しみ、Ttongsulに満ちていた。

   The XXX Files ・・・20th .

Future Generation !

真実と闘え・・・

Zipangu Independence Banzai⁉️

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   Sub Title "Don't be afraid Back To 近代 Beginning With You"

FunnyBomb.

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間島(カントウ)事件

   大正9年(1920912勃発。

   後に満洲国の一地方となる間島で、主に反日支那人馬賊と朝鮮匪賊が日本人をTargetに起こしたテロ殺傷事件。

   無数の日本家屋、領事館は爆破、放火されました。勿論、お得意の掠奪もしっかり行われています。十数名が殺害。

 

大正デモクラシーと言う社会変革

 ww1が終戦し、日本国内には好景気が訪れていました。

 大正11年(1922には部落解放を掲げた全国水平社が組織され、大正14年(1925には納税者ではない国民も参政権を得る普通選挙制度が開始されます。

 ただし、女性の参政権が施行されたのは、戦後の事になります。

 全国で工場労働者が急増し、労働組合も各地で組織されます。女性の地位向上を掲げて婦人運動が活発になり、市民運動も盛んになります。

 これらの自由な空気、和製デモクラシーの潮流を示唆して大正デモクラシーと呼んでいました。

 町には映画を上映する映画館が立ち並び、ラジオ放送が始まりました。

 カレーライス、トンカツやキャラメル、ビスケット、ケーキなどが流通し始めたのは、この頃からです。

 デパートが出現し、バス運行、バスガール、電話交換手と言った女性向けの職種も浸透していきます。

 雑誌、小説が発刊され、芥川龍之介、谷崎潤一郎、志賀直哉が流行したのはこの時期です。

 東京6大学野球、宝塚歌劇団が誕生した頃でもあり、動物園、遊園地、レコードも登場し社会に普及していきました。

 

関東大震災

 大正12年(1923911158発生。

   死者及び行方不明者105千余人。

 地震による経済打撃は、国家予算の約3倍。

 韓国人は、被災の混乱に乗じ、伝統風習である殺人、暴行、放火、掠奪を行い、日本人自警団に殺された者が多くいたと言います。

 現韓国政府の公表では、関東大震災の折に数10万人の韓国人が殺されたと言われます。

 当時の在留韓国人の人口が8600余人だったにも関わらずです。

 関東大震災の折に、数10万人の同胞が殺された韓国人は、翌年の大正13には、12200余人が日本に流入しています。

 彼等の常識は、一体どうなっているのでしょうか。

 私だったら、日本人が数10万人虐殺された街に、事件の翌年には絶対行きませんけど。

 自警団の標的は、確かに韓国人ではありましたが、数十万人と言う被害者数は間違いです。又、一定数の韓国人と間違われた日本人が犠牲者となったのも残念ながら事実の様です。

 

排日(斥)移民法(ジョンソン・リード法)制定。又は改正・移民帰化法

 大正13年(19247 、所謂、排日移民法が米国で施行されます。

   一般理解では、戦前の米国で日本人の米国入植を禁止した法律。が、対象となった移民は、成文法上は、日本人のみでなく、欧州人(主に中欧東欧系、カリブ系、地中海系の黒人やコーカソイド(キリシタン白人至上主義の欧州人)、スファラディ系ユダヤ人(アジア・アフリカに離散したユダヤ人)とアジア人全般でした。

   アシュケナージ系ユダヤ人(東欧に離散したユダヤ人)の大規模な米国移民は、この頃既に終息に向かっていた為、意図的に規制しなかったと言われます。

   しかし、歴史的事実は、実質的、現実的に米国のアジア人移民は当時、圧倒的に日本人が殆どであり、誰が見ても明らかに日本人を標的にした規制法でした。

   それが原因で、当時の国連事務次長・新渡戸稲造が反米思想に転換したとも言われます。

 

間島(カントウ)暴動

 昭和5年(1930530日。

 後に満洲国となる東北地方間島省で起きたテロ事件。

   反日(抗日)朝鮮共産主義者・社会主義者が支那人の支援により武装蜂起し、日本人、親日朝鮮人らを襲撃した事件。

 約7000人検挙。内約700人起訴。22人死刑。

 

 昭和15年(1940)の人口調査では、満洲国の朝鮮族は130万人、そのうち55万人が間島省の人口でした。

   多くの左翼系歴史書では、朝鮮人は日本人に土地を奪われ、迫害を受けて、日本人に追われる形で満洲に入り、反日の基地を作ったと記録されています。

   しかしながら、それこそが歴史修正なのです。真実と正史は保守側の歴史書にこそ記されているのです。

   何故なら、朝鮮人の満洲入植は、既に封禁政策が始まった清朝時代(明治以前)から始まっているからです。

 

柳条湖事件

 昭和6年( 1931918、南満洲鉄道の路線、柳条湖で、反日烈士・張学良の国民党軍東北軍によって鉄道が爆破された事件。

 

 昭和31年(1956までは、それが定説でした。

 昭和31年、当時の元・関東軍の花谷正少佐が関東軍謀略説を発表した為、現在では柳条湖事件も満洲事変も日本軍の謀略だと言う説が定説となっています。

 しかし、満洲事変のきっかけとなった柳条湖事件は、日本の第一次資料では「国民党軍の東北軍」つまり、反日烈士の張学良軍が起こした事が記録されており、東京裁判でも全く問題にされていないのは、現実であり、事実です。

   少なくとも積極的に交戦したのではない、偶発的に交戦したのではないか?

 そう思います。

 

満洲事変

 昭和6年( 1931918日開戦、昭和7年(1932218終結。

 兵力は日本軍約16万人、支那軍約66000人。戦死者は不明。(WikipediaにもData無)

 日本は、日露戦争によって得た露国の権益、南満洲鉄道を懸命に経営していました。

 その頃、満洲の位置付けは「日本の生命線」です。

 日本が満洲に投資した額は、当時のレートで約16億円。満洲の日本人は、最終的に約155万人となっていました。

 

 日本の全外国資産の約7割が満洲の投資でした。

 関東軍が満洲事変を起こした原因は、支那人から「ここは、支那領土だから出て行け。日本の侵略だ。兎に角出て行け」と言われたからです。

 その為、関東軍は柳条湖事件を仕掛けたのです(と言う事にしておきます)。

 目を見張るのは、電光石火の早技で奉天、営口、安東、遼陽、長春と言う南満洲の主要都市を制圧した事です。

 更には、権益を得ていなかった北満洲にまで進軍します。

 激しい戦闘が展開されました。

 その結果、翌昭和7年(19322には、黒竜江省の首都、チチハル(斉斉哈爾)、ハルビン(哈爾浜)をも占領しました。

 当時、反日烈士の張学良は北京に滞在しており、蒋介石は掃共戦(中共紅軍を殲滅する支那内戦)に集中していた為、その間隙を縫った関東軍に対して報復戦が行われる事はありませんでした。

 

 列強の情勢は、英米が世界恐慌の収拾、ソ連は不干渉声明を出し国内の5ヵ年計画の真っ最中でした。

 こうして、満洲事変は成功し、満洲国建国の下地は整いました。

 これに、蒋介石・中華民国が反発して「我が領土に日本が侵略を始めた」と、当時の国連に訴えを起こしたのです。

 

 当時の国連(国際連盟)は米国が提唱して発足した組織でしたが、言い出しっぺの米国は参加しておらず、露国も不参加でした。

 また、独自軍もなく、何一つ国際紛争を解決する能力はなく、特に東アジア情勢に国連は全く無関心でした。

 

満洲帝国建国

 大同元年(193231、満洲帝国建国。

 満洲国は、アジア大陸の歴史上で日本に次いで近代化を果たした文明国でした。

 首都は新京(現在の吉林省長春市)、最大都市は奉天(現在の遼寧省瀋陽市)です。

 大同と言うのは、満洲国の独自元号で、大同元年は、和暦で昭和7です。

   明治41年(1908現在、1583万人だった人口は最終的に4323万人にまで膨張しています。2740万人の人口増加。当時、満洲に移民して来た者は、日本人よりも、むしろ突如として大陸に現れた桃源郷・満洲国に憧れ、安全安心と生活向上を目指して流入した東亜五族(満・蒙・日・支・朝鮮)のうち、特に中朝人が中心でした。

 

辛亥革命後、支那人は満族を大虐殺した

   明治44年(1911の辛亥革命後、西安革命軍は満族を大虐殺しました。支那人は、「満洲人と呼ぶな。満族と呼べ」とやっています。

 少数民族と意識させる為です。

 満洲人は支那人によって射殺、惨殺、火あぶり、レイプなど23万人がジェノサイドされたのです

 満族の国だった清朝が崩壊した後、満族は蜘蛛の子を散らしたように居なくなりました。

   彼等は、これ以上の虐殺、虐待、疎外を避ける為、漢人に成りすまして生き延びました。満族の人口が急増したのは、文革以降の事です。

 

インフラ整備

 日本は、満洲建国後、インフラ整備を急速に行いました。

 満洲国中央銀行が発行していた通貨単位は、日本と同じ円で、日本同様に満洲独自の元号もあり、ダム、水道、電気、水洗便所、セントラルヒーティング、二重ガラスがあったとか、満洲には空爆もなく、チョコレート、クッキー、白米等、食生活も内地(日本)よりかえって安定した水準だった様です敗戦を迎えるまでは。

   戦中当時、満洲と朝鮮は、日本へ怒涛の様に移民する支那人、朝鮮系日本人の密航を減らす目的もあって、日本の投資によりほぼ同時平行的に集中的開発投資が行われていたので、朝鮮での生活も同様の傾向にあった事は、想像に難くありません。

 

   そのインフラ整備は、内地の日本人から増税で徴収された税金が原資となった事も明らかになっています。

   満洲国が発行した国債を購入していたのは、全て日本政府です。当然、それも増税で賄った税金です。

   官民挙げて開発した満洲国、朝鮮半島。

   地政学的には、共産主義を、支那風に言えば、共匪、赤匪を食い止める重要な緩衝地帯でした。

 西洋的植民地政策では、絶対に行わない現地の教育、重工業化、インフラ投資も行ったのです。

 

To Be Continue

 

 

 乱筆乱文長文ここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 

 

出典:満州国の遺産(黄文雄著)、日本の戦争解剖図鑑(拳骨拓史著)   真実の満洲史 (宮脇淳子著) 支那・韓国が死んでも隠したい❗️本当は正しかった日本の戦争(黄文雄著)、通州事件 日本人はなぜ虐殺されたのか(藤岡信勝・三浦小太郎著)、ノモンハンの夏(半藤一利著)、Wikipedia、韓民族こそ歴史の加害者である(石平著)、天才戦略家としての肖像・石原莞爾(佐治芳彦著)、かくて昭和史は甦る(渡部昇一著)、国破れてマッカーサー(西鋭夫著)、日本が戦ってくれて感謝しています2(井上和彦著)、日本国紀(百田尚樹著)、ユダヤ人の歴史(ポール・ジョンソン著)、戦後七十年の真実(渡部(watanabe)昇一著)

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