近代日本への道1 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・『ZipanguIs Japanese 

Big Picture First. 

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

   2020年、Big ChinaSmall ChinaSpecial Asia3国は呪詛、憎しみ、Ttongsulに満ちていた。

   The XXX Files ・・・20th .

Future Generation !

真実と闘え・・・

Zipangu Independence Banzai⁉️

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   Sub Title "Back To 近代 Beginning"FunnyBomb.

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 突然ですが、戦前の日本は、民主主義の欠片もない軍国主義で、封建的で貧しい未開国家と言うイメージがあるでしょうか?

 所得水準や住環境(住宅、家電製品等)などは、まだまだ発展途上にあったとは言え、大正時代には、既に地下鉄、バス、百貨店、エレベーター、エスカレーター、ビール、ラーメン、缶詰、ウイスキー、映画などは社会に普及し始めています。

 松坂屋、伊勢丹等の百貨店は、大正時代には既に創業しています。

 大東亜戦争が始まってから、世界恐慌に至るまでの不況や統制経済、軍事予算捻出の為の増税等はありました。

 戦時下の国家予算の内、6割以上が軍事費に割かれていました。

 エリートとノンキャリの格差があったのは、今も当時も変わりません。

 それらを抜きにすれば、戦前・戦後の大衆生活は、著しく大差のある世界ではありませんでした。

 満洲国のインフラ整備を進めたのは、あのニッサンですし、当時は三井、三菱、住友等の大財閥が健在な頃ですから。

 "戦後の焼け野原" "戦後復興期" と言う世界は、そんな当たり前の社会がぶち壊されカオスの状態から生まれた世界です。

 そうした視点を頭の隅に置いて、近代日本が辿った足跡を書いていきます。(Bitch Funny)

 

日清戦争

 明治27年(1894725日開戦、明治28年(18951130日終戦。

 戦力は日本軍24万余人、清軍約63万人。

戦死者、日本軍約13千余人。清軍約35千人。

   シベリア鉄道着工が近い露国が朝鮮を奪取しようとしていると危惧した日清両国が、朝鮮独立をかけて激突した戦闘。

   李氏朝鮮内部でも、日清それぞれと内通する勢力が争いました。

   金玉均(朝鮮の開国派政治家。墓所は東京に有)のクーデターを清軍が鎮圧、朝鮮内部の甲午農民戦争(東学党の乱:日清戦争開戦の同年、朝鮮民衆が李氏朝鮮閔妃の圧政に対し反乱を起こした内戦)鎮圧の為、清軍は李氏朝鮮の要請で出兵しました。

 この時、日本軍も出兵し、豊島沖(ホウトウ)で開戦に至りました。

 

﹅豊島沖海戦

   明治27年(1894725、日清両国の艦隊が朝鮮半島西側の豊島沖で交戦。

   日本側の損害はゼロ。清軍は約1100人。清軍艦隊は、巡洋艦1隻が爆発、日本軍は、清軍の艦隊に随行していた英船籍の船も撃沈させました。

   この時、主力で戦ったのが、戦艦「浪速」で艦長は、あの東郷平八郎でした。

   当初、英国政府は日本を批判していましたが、東郷の判断が正しかったと分かると、世界各国からは一転して賞賛が湧き起こりました。

 

日清戦争の原因

 日清戦争の原因は、日清両国の戦略上、国益上の対立が主因となった事は間違いない事実です。

 しかし、日清両国が激しく対立するキッカケを作り、日清戦争の原因を作ったのも、間違いなく両者の間に立つ朝鮮と李氏朝鮮の人々です。

 壬午軍乱(明治15年(1882ジンゴグンラン、閔妃暗殺未遂事件)で、閔妃側が清国軍を半島に招き入れた事が、元々日清間の戦略的対立を生み出した最初のキッカケでした。

 甲申政変(明治17年(1884コウシンセイヘン、朝鮮開国派によるクーデター)の際、日本軍の力を借りて政変を起こした金玉均派の行動と、政変鎮圧の為、清国軍の出動を要請した閔妃側政府の行動が衝突した結果、日清両国の最初の軍事衝突が起きたのです。

 半島が、両大国の決戦の舞台となったのも、結局、自国の一地方の農民一揆の鎮圧の為に、清国軍を招き入れた李氏朝鮮の愚挙が直接の引き金となったのです。

 言ってみれば、壬午軍乱から日清戦争まで、日清間の対立と戦争の背後にあったのは、常に朝鮮と言う国の常軌を逸した迷走だったのです。

 

日清戦争の具体的戦闘

豊島沖(ホウトウ)海戦 明治27年(1894725

   戦死者 日本側0、清側約1100人。

成歓・牙山(セイカン・アザン)の戦闘

 明治27年(1894728日〜30日。

   戦死者 日本側約34人、清側約500

平壌の戦い 明治27年(1894915

   戦死者 日本側約180人、清側約2000

黄海海戦 明治27年(1894917

   戦死者 日本側約298人、清側約850

旅順口攻略 明治27年(18941121

   戦死者 日本側40人、清側約4500

威海衛の戦い 明治28年(189521日〜12

 

 日清両国は、明治28年(1895417、この戦争を終結させ下関で講和条約に合意しました(下関条約)。

 この和平条件として、日本は遼東半島及び台湾の領有権、賠償金2億両(約31千万円)を得ました。

 しかし、明治28年(1895423、三国干渉(露仏独)を突きつけられた事により、遼東半島の領有権は放棄させられました。

   戦死者 日本側約11200人、清側約14000人。

 同年4月には、台湾併合、10月に閔妃(ビンヒ)暗殺事件(乙未事変)と大きな出来事が続きます。

 

日露戦争

 明治37年(190428日開戦、明治38年(190595日終戦。

 兵力は日本軍約30万人、露軍約50万人。

戦死者、日本軍は約115600余人、露軍は約42600余人。

   日本軍が、朝鮮半島の自主独立と露国の南下政策阻止の為、露軍と激突したのが日露戦争です。

 

 露国太平洋艦隊は、ウラジオストクと旅順(支那遼東半島の町)を極東の基地としましたが、2つの基地の中間地点には日本の佐世保基地があり、連携した作戦行動は困難でした。

 太平洋艦隊の総トン数は日本海軍よりも劣っていました。

 しかし、露国海軍は、太平洋艦隊が全滅しない限り日本軍の大陸への上陸を阻止できるとして、バルチック艦隊との合流も考えていた為、作戦行動は消極的だったと言われます。

 露軍は、日本軍の能力を軽視していました、この事が露国の敗戦の一因でもあります。

 大本営の当初の作戦構想は、"満洲を占領する露軍を南から追い詰めて叩く" と言うものでした。

 具体的には、「日本陸軍の第1軍を朝鮮半島から北上させて、露軍の拠点である遼東半島に進軍する」と同時に"2軍は遼東半島の最も狭い部分である金州、南山を占領する" と言うもので、露軍の誇る旅順要塞を孤立させ、奉天市手前の遼陽市まで北進して第1軍と第2軍で露軍を挟み撃ちにすると言う構想でした。

 

 その後、作戦を前線の"満洲軍総司令部(大山巌総司令官・児玉源太郎参謀総長)" が修正して、乃木希典(ノギマレスケ)将軍率いる第3軍、第4軍、鴨江軍、北韓軍が新たに加わり激戦を繰り広げました。

 

日露戦争の具体的戦闘

仁川(ジンセン)沖海戦 明治37年(190429 戦死者・日本軍ゼロ、露軍31

旅順港閉塞作戦 明治37年(1904224日、327 戦死者・日本軍約20人、露軍ゼロ

鴨緑江(オウリョクコウ)会戦 明治37年(1904430日、51 死傷者・日本軍約1000人、露軍約1800

南山の戦い 明治37年(1904525日、26 死傷者・日本軍約4300余人、露軍約1400

黄海海戦 明治37年(1904810 死傷者・日本軍約250人、露軍約400

蔚山(ウルサン)沖海戦 明治37年(1904814 戦死者・日本軍約45人、露軍約140

旅順攻囲戦 明治37年(1904819日開戦、1030日終結 戦死者・日本軍約51000人、露軍約63000

遼陽会戦 明治37年(1904824日〜94 戦死者・日本軍約23600余人、露軍約17900

沙河会戦 明治37年(1904109日〜20 戦死者・日本軍約4000余人、露軍約5000余人

3次旅順攻囲戦 明治37年(19041127日〜125 戦死者・日本軍約5000余人、露軍5300余人

黒溝台(コッコウダイ)会戦 明治38年(1905125日〜29 死傷者・日本軍約9300人、露軍約11700余人

奉天会戦 明治38年(1905221日〜310 戦死者・日本軍約15800余人、露軍約8700余人

日本海海戦 明治38年(1905527日、28 戦死者・日本軍約117人、露軍約4800余人、捕虜約6100余人

 

 日本が露国に完勝するには、モスクワを落とす必要がありましたが、日本軍には長期戦に耐えるだけの余力はありませんでした。

 そこで、米国に仲裁の斡旋を依頼します。

 地上戦で、旅順を陥落し、日本海海戦で日本軍が勝利した事を機に、米国、ルーズベルト大統領は、露国に講和を打診しました。

 

 露国は、最初、この打診を拒否しましたが、国内でも民衆の反乱があった為、最終的に妥協して講和に入ります。

 

To Be Continue

 乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 

 

出典:満州国の遺産(黄文雄著)、日本の戦争解剖図鑑(拳骨拓史著)   真実の満洲史 (宮脇淳子著) 支那・韓国が死んでも隠したい❗️本当は正しかった日本の戦争(黄文雄著)、通州事件 日本人はなぜ虐殺されたのか(藤岡信勝・三浦小太郎著)、ノモンハンの夏(半藤一利著)、Wikipedia、韓民族こそ歴史の加害者である(石平著)、天才戦略家としての肖像・石原莞爾(佐治芳彦著)、かくて昭和史は甦る(渡部昇一著)、国破れてマッカーサー(西鋭夫著)、日本が戦ってくれて感謝しています2(井上和彦著)、日本国紀(百田尚樹著)、ユダヤ人の歴史(ポール・ジョンソン著)、戦後七十年の真実(渡部(watanabe)昇一著)、平成史(片山杜秀、佐藤優著)

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