Zipangu is JapaneseBig Picture First.
Please Don't Korea❗️
Truth ・・真実は動き始めた
2020年(R2)、Big China、Small China(SpecialAsia)3国は呪詛、憎しみ、Ttongsulに満ちていた。
The XXX Files ・・・20th .
Future Generation ❗️
真実と闘え・・・
Zipangu Independence Banzai⁉️
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
Sub Title "Back To 戦国 Beginning"
(FunnyBomb).
■大阪夏の陣・真田幸村軍の猛攻
真田軍の御大将・真田幸村は暫く戦の動静を観察していました。
毛利軍の快進撃を見るや、「時は今」とばかりに決断し3千5百騎の自軍を率いて松平忠直軍1万5千人の中に特攻します。
両軍共に、混戦状態となり死闘が繰り広げられます。
真田軍の猛追に、徳川勢の諸将、雑兵達は次々と討ち死し、大混乱をきたして敗走を始めます。
家康も、この状況に歯止めをかける為、援軍を送りますが収拾はつきませんでした。
大坂夏の陣における豊臣勢MVPは、毛利勝永軍、真田幸村軍と言って差し支えありません。
しかし、これだけの大苦戦を強いられる徳川勢であっても、数の論理です、岡山口方面から派遣された井伊直政軍、藤堂高虎軍が援護に入ると、徳川勢は再び息を吹き返し反撃を始めます。
真田幸村軍は、戦場から引き揚げます。
幸村は、疲労困憊の状態にあった為、山北の安居神社(現・大阪市天王寺区)(別名・安居天満宮)で休息を取っていました。
この時、幸村は松平忠直軍の西尾宗次に槍で刺されました。
御大将が討ち死した真田幸村軍は壊滅します。
慶長20年(1615)5月7日、真田幸村(信繁)討ち死。享年49歳。
真田軍崩壊により、一気に形成が不利になった毛利勝永軍の御大将、毛利勝永も自害を選びます。
毛利勝永討ち死。享年37歳。
一時は、家康本陣まで攻め上った豊臣勢も、藤堂高虎軍、本多忠政軍に進路を阻まれ家康の首を取るに至りませんでした。
死闘の末、形勢を巻き返した徳川勢は、大坂城に王手をかけます。
■豊臣政権崩壊・安土桃山時代終焉
天王寺口、岡山口での合戦は、3時間の熾烈な戦いの末、豊臣勢諸将の殆どが討ち死し、敗残兵は大坂城内に逃げ込みます。
慶長20年(1615)5月7日朝、秀頼は家康本軍との決戦を決意し、天王寺口まで出陣しようとします。
しかし、家康からの和睦の使者が訪れたとか、大坂城に火を放ったなどの流言が飛び交い、秀頼は結局出馬する事が叶いませんでした。
なおも、討ち死覚悟で出陣しようとする秀頼を、前線から帰還した速水守久(近江衆)が諌めて「むしろ退いて本丸を守るべき。しかして力尽きた後に自害しても遅くはない」と告げて、秀頼を本丸まで引き揚げさせます。
大坂城に、いよいよ火が放たれました。
折からの強風に乗って、大坂城はたちまち大炎上します。
城内の豊臣恩顧の諸将が次々と切腹していきます。
秀頼は、淀殿、千姫を連れて天守閣に登り自害しようとしましたが、またも速水守正が制止し、秀頼、淀殿等5百人余りは、山里曲輪(ヤマサトクルワ)へ退き土蔵内に避難します。
大野治長(ハルナガ)が、千姫と侍女達に護衛をつけて、秀頼、淀殿の助命を託して城外へ脱出させます。
家康も、千姫が脱出に成功した報を受けます。
千姫から秀頼、淀殿親子の助命嘆願を受けた家康は、陣中で会議を開きます。
第2代将軍、徳川秀忠(千姫の父)は、自分だけ逃げ帰った千姫に「何故、(夫である)秀頼と共に自害しなかったのか」と厳しく叱責し、秀頼、淀殿の助命を激しく拒絶しました。
慶長20年(1615)6月4日、土蔵内で吉報を待っていた秀頼、淀殿、家臣等約30人は、助命を認められず集団で自害し土蔵は焼かれました。
しかし、判官びいきの影響でしょうか❓
秀頼、淀殿親子の遺体は、何故か発見されなかったと伝えられます。
秀頼、淀殿が自害した様子は誰も目撃していません。
秀頼、淀殿、真田幸村の生存説は、現在も伝説化しています。
淀殿、享年50歳。
秀頼、享年21歳。
■徳川家康逝く
そして・・・
慶長20年(1615)、豊臣政権の完全な崩壊をもって、元号も"元和" (ゲンナ)に改元されました。
ここから、名実共に"安土桃山時代" に終止符が打たれ、いよいよ"江戸時代" の幕開けとなります。
しかし、江戸幕府の父祖、徳川家康は、因果な事に次の年、元和2年(1616)4月17日、他界します。
徳川家康、享年75歳。
家康の死にも、諸説あります。
公式には、75歳で死んだと言うのが定説です。
しかし、実は、本能寺の変の際に行われた、伊賀越えの最中に落ち武者狩りにあって殺されたのではないか?
或いは、大阪夏の陣で、真田軍に討ち取られ、その後の政権の采配は、影武者が代役を務めていたのではないか?
最も多く流布されている説は、天ぷらに当たって死亡したと言う説です。
私も単純にそう思っていました。
しかし、この説は信憑性が薄いと言われます。
何故なら、家康が最期に天ぷらを食べたのは死亡日の凡そ3ヶ月前だったからです。
死因が食中毒であれば、3ヶ月も持ちこたえる事など科学的にあり得ないからです。
最も有力な説は、現在では"胃がん説" と言われます。
江戸幕府が編纂した"徳川実記" にある家康の病状が、胃がん患者の症状に酷似しているからです。
様々です。更なる日本史研究の成果が待たれるところです。
出典:完全制覇 関ヶ原大合戦 外川淳著、関ヶ原合戦と石田三成 矢部健太郎著、その時歴史が動いた Wikipedia Japan、豊臣秀吉 天下人への道 歴史と文学の会編者、逆説の日本史 井沢元彦著、秀吉の天下統一戦争 小和田哲男著
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乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)