空前絶後・豊臣政権9 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・『ZipanguIs Japanese 

Big Picture First. 

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

   2020年(R2)Big ChinaSmall ChinaSpecialAsia3国は呪詛、憎しみ、Ttongsulに満ちていた。

   The XXX Files ・・・20th .

Future Generation !

真実と闘え・・・

 

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Zipangu Independence Banzai⁉️

   Go Now ‼️ No Times❗️

No Place⁉️

   Sub Title "Back To 戦国 Beginning"

FunnyBomb.

 

 

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家康水面下工作

   歴史学は、結果から内容を分析評価するものです。

   そう言う観点では、もし、秀次が切腹していなかったら、後の関ヶ原は起きていなかったかも知れないと言う評価もあります。

   秀次が、豊臣政権の中継ぎとして家督を継承していれば、少なくとも幼児の秀頼や、その背後にあった淀殿よりは豊臣政権を延命出来たかも知れないからです。

   家康は、文禄4年(15957に勃発した秀次事件を受けて、秀吉の死期が近いと考え、豊臣恩顧の諸大名を徳川勢に取り込む工作を始めます。

   秀吉は、無謀な朝鮮征伐において、軍令に背いた大名に改易(カイエキ)と国替えを乱発していました。

   改易とは、かつて信長が老臣の佐久間信盛や林通勝などを処分した様に、家臣に対し成績不振や、逆心等を理由に禄高を減給したり、領地没収や追放処分にする事です。

   最悪の場合、お家取り潰しに繋がる大名も少なくなかった様です。

   信長が実行したそう言う政治手法も、秀吉は継承していたのです。

 

   主に、蒲生氏郷、蜂屋頼隆、小早川秀秋、長谷川秀一、仙石秀久等が改易処分を受け、蒲生家、小早川家などはお家断絶にまで発展しています。

   家康は、そんな秀吉の改易処分の標的にされた諸大名に手を差し伸べて、徳川家への支持と信頼を獲得し味方を増やす作戦を水面下で講じたのです。

   この頃から、秀吉はみるみる老衰を進行させ、秀頼に溺愛のあまり、政局を采配する能力も疑わしいものとなっていきました。

   秀吉は、無意味で破滅的な朝鮮征伐でツキからも見放され、更に御乱心の様子でした。

 

太閤検地

   これは、秀吉が太閤になってからの呼び方ですが、検地そのものは、太閤になる以前の天正10年(1582山崎の合戦が終わった直後から行なわれています。

   又、検地は、秀吉だけが行なっていたものではなく、北条、上杉、今川、毛利、武田、織田の領国でも行われていました。

   秀吉の検地だけが、取り沙汰されるのは、他の検地の中でも、群を抜いて大規模だった事や、最も測量精度が高かった事、日本で初めて全国統一規格の土地台帳が整備された事などが上げられます。

   山城で、領主に自身の領地の面積を自己申告させたのが始まりです。

   当時の面積は、反(タン)、畝(セ)、歩(ブ)を単位とし、30歩で1畝、300歩(10畝)で1反。

   基本単位は反となりますが、秀吉はそれまで一反360坪だったものを一反300坪に変更します。

   令和の世、21世紀でも、1300と言う単位は変わりません。

 

●一石一反

   一反360坪と言うのは、太閤検地が始まる前、大化の改新からずっと続いてきた単位でした。

   一反とは、1人の人間が1年の内に食する米の量の平均値から逆算したものです。

   1は約150グラム。1011011011石は1。すると、11000合と言う事であり、それを1年の内に食す米の量の平均値としていたのです。

   1は、1人の人間が1日に食す米を生産できる面積。1反360と言うのは、一反で1人の人間が1年に食す米を生産できる面積となります。

   つまり、1石は人1人を養う事の出来る単位と言い換える事が出来ます。

   言えば、加賀百万石と言うのは、100万人を養う事が出来る石高と言う事です。

   又、加賀百万石の領主になると言う事は、100万人の民衆の上司になると言う事でもありました。

   これを1360坪から300坪に減らしたのです。当時の年貢は、今の税金と同意ですから増税した事になります。

   しかし、360坪と言う単位が桃山時代を起点に1000年前から使われている事を考えれば、時代の変遷や技術の進歩を考慮すると改めるのが自然な行為だと言う見方も出来ます。

 

参考

 

 

﹅太閤検地は農地大改革だった

   検地とは、直接田畑を測量し生産高を調べる事です。

   拒んだり、逃げたりする事、田畑を捨てる、収穫を隠す行為は、磔の刑など厳罰に処されました。

   "差出" と言うのは自己申告を意味します。

   この差出に対して、検地とは強制的に調査すると言う意味合いになります。

   その国の米の生産高を課税の基本とするものを石高(コクダカ)と言いますが、戦国時代は、石高制でなく、貫高(カンダカ)でした。

   それを信長が戦国時代に終止符を打ち、石高制が導入されます。

   貫高とは、その土地から上がる収入を金銭に換算して表すものでした。

   しかし、貫高制では、実際に土地からどの位の量の作物が収穫出来るのか、又、その土地の面積と言った事が分かりません。

   収穫を正しく測るには、統一規格の枡(マス)で測らなくては意味がありません。

   しかも、国内どこに行っても同じ規格でなければなりません。

   この時代、それらが整備されていませんでした。

   現代で言う納税は、当時、年貢を納める事です。

   つまり、この時代、土地台帳がはっきりしない、作物の計量の統一規格が決まっていないと言う事は、世の中、脱税だらけだったと言う事です。

   更に小作地となれば、所有者と耕作者が違う為に、年貢を納める迄に、中間で搾取する者までいました。

   太閤検地には、それら中間搾取する層を排除する事と耕作者にその土地を任せると言う意図もありました。

   これを"一地一作人の原則" と言います。

   この原則は、小作農自作農に変えると言う意図があり、言わば太閤検地は農地改革でもありました。

   これは、秀吉にとって自分の実家と同じ貧農に土地を与えると言う大改革であり、秀吉の大功績の一つでもありました。

   鎌倉時代から、土地管理の失敗は、政権への反感を増幅させ、政権を揺るがす鬼門でした。

   裏を返せば、兵農分離によって専業農家が生まれ、それを太閤検地によって専業農家が百姓一揆を起こす暇さえ失くす程、農地に縛り耕作に専念させる意図がありました。

   つまり、太閤検地は一向一揆を未然に防ぐ治安維持の一翼も担っていたのです。

 

﹅村切り検地帳

   秀吉は、それまで土地の所有が不明確だった為に、村(惣)と村との境界まで不明確だったと言う弊害を正す為、村と村の境界を明確に定めました。

   これを"村切" と言います。

   その結果、初めて村の石高が分かり、村の集まりである"" の石高が分かり、郡の集まりである国の石高が明確に把握する事が出来ました。

   これにより、「検地帳」と言う土地台帳を整備する事にも成功します。

 

   1石が1人と数える事が出来るのであれば、石高を合計すれば、人口さえ把握する事が出来ると言えます。

   太閤が他界した慶長3年(1598に纏められた「日本賦税」と言う史料によりますと、当時の日本は66カ国で全国の石高は1850万石、これは桃山時代の日の本の人口が1850万人だったと言う事を表します。

   太閤検地によって、日本の国家予算を編成し、人口を把握する事が可能となります。

   太閤検地によって、軍事力、組織力、経済力の三拍子が揃い、刀狩りによって信長が施行した兵農分離を補完すると共に、更に治安強化する事にも成功したのです。

 

秀吉逝去豊臣新政権

   二度目の朝鮮征伐も失敗に終わります。

   秀吉の乱心ぶりに、人心は太閤から急速に離れていきました。

   秀吉は、臨終の直前まで秀頼の身と豊臣家の行く末を案じ、五大老の前田利家に秀頼の後見人役を委任します。

   失意の内に、太閤秀吉は自身が隠居の為に建てた伏見城で息を引き取ります。

 

   "梅雨(ツユ)と落ち、梅雨と消えにし我が身かな。浪速の事も、夢のまた夢" 秀吉・辞世の句。

   慶長3年(1598818、豊臣秀吉死去、享年62歳。

   最下層の貧農から、織田家中の上司の娘との逆玉の輿を手に入れ、朝廷の最高官位、太政大臣(ダジョウダイジン)まで上り詰めた、空前絶後の立身出世物語でした。

   因みに他の太政大臣には、平清盛、足利義満、家康、徳川秀忠、三条実美卿等々がいます。

 

   秀吉は、遺言を残していました。

   新政権と豊臣家の家督は、秀頼が継承する事。

   秀頼、淀殿と三成は、大坂城に残り、前田利家が秀頼の後ろ盾として政務を補佐する事。

   家康においては、伏見城(京都)に入城し、同じく豊臣新政権の政務をサポートする事。

   慶長4年(15999、北政所おねは、大坂城を自ら出て行きます。

   この時、正室おねは、京都の三本木に引き籠り、出家し尼となります。

   家康が、おねの元を足繁く通う様になります。家康は、おねの信頼を獲得する事で、次の天下取りの足掛かりにしようとしていました。

   家康は、第一線から退いたおねの元に、淀殿、三成をはじめ豊臣恩顧の武将が出入りしているのを知っていました。

   家康の目的は、おねの元に集まる豊臣恩顧の有力武将を徳川方に引き入れる事でした。

 

   家康は、淀殿の男性関係の醜聞を世に流し、世間の三成に対する反感世論を煽ります。

 

To Be Continue

乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します 。

出典:YOU TUBE版逆説の日本史、完全制覇  関ヶ原大合戦 外川淳著、関ヶ原合戦と石田三成 矢部健太郎著、その時歴史が動いた  Wikipedia Japan、豊臣秀吉 天下人への道 歴史と文学の会編者、逆説の日本史 井沢元彦著、秀吉の天下統一戦争  小和田哲男著