・・『Zipangu』Is Japanese
Big Picture First.
Please Don't Korea❗️
Truth ・・真実は動き始めた
2020年(R2)、Big China、Small China(SpecialAsia)3国は呪詛、憎しみ、Ttongsulに満ちていた。
The XXX Files ・・・20th .
Future Generation !
真実と闘え・・・
Zipangu Independence Banzai⁉️
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
Sub Title "Back To 戦国 Beginning"
(FunnyBomb)
・・・怒る豊臣秀吉の続きです
天正15年(1587)、コエリョは、フスタ船に乗って博多の秀吉の前に現れ、その火砲の威力を見せつけました。
秀吉を威嚇したのです。
秀吉は激怒しました。
何故なら、イエズス会にキリスト教布教の自由を与えたつもりでいたからです。
それは、信長時代からの「宗教が政治に関与しない限り、信教の自由は認める」と言う方針と同じでしたが、キリスト教とはそんな生易しいものではない、と言う事を秀吉は思い知らされました。
まず、最も熱心なキリシタン大名、高山右近に棄教を迫り、拒否されると国外追放にします。
そして、天正15年(1587)6月18日、宣教師追放令を発布し、博多湾のフスタ船に搭乗していたコエリョに、直接"伴天連追放令" を伝えました。
又、日本人がキリスト教に改宗する事も禁止にします。
■外道の法から日の本を守る■
秀吉が、伴天連追放令を発布した背景には、ポルトガル人(イエズス会)が キリスト教の布教を熱心に行い神の恵み、慈悲を説きながら、その一方で南蛮貿易において多数の日本人を安く仕入れ、奴隷として船に強制連行し、海外に売り飛ばす事実があったのです。
秀吉は、フスタ船が砲撃する前に、コエリョやヴァリニャーノに連れられて、フスタ船内部を視察しています。
その船内で、何か見てはいけないものを見たのかも知れません。
『九州御動座記』には、当時の日本人奴隷の境遇が記録されていますが、それは黒人奴隷の境遇と全くといって良いほど同じで、それは酷い有様でした。
ただし、こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、「近所の日本人が、子を売り親を売り妻子を売る」という状況もあった事が、同じく『九州御動座記』に書かれています。
秀吉は、その状況を目の当たりにして日本が「外道の法」(大陸の法)に侵される事を心から案じました。
検地・刀狩政策を徹底しようとしたのも、農村秩序の破壊が何よりの脅威と感じていたからです。
伴天連追放令の条文中に、ポルトガル宣教師による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定があります。
これが、日本人奴隷売買の実態を知っていた何よりの証拠です。
こうした現実が、日本での鎖国体制確立への第一歩となり、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことが分かります。
奴隷貿易(人身売買)がいかに利益の大きな商業活動であったか、このエピソードからも十分に推察できます。
この時の追放令は、あくまで布教を禁止したものであり、江戸時代の様に信者の追放や処刑まで行うものではありませんでした。
こうした事が、秀吉に明国征服を掲げて朝鮮征伐を強行する一つの要因となったのかも知れません。
■朝鮮征伐
秀吉の評価が、信長公と比較して低いのは"朝鮮征伐" のせいだと言います。
朝鮮征伐の事をSouth Korea では"壬辰倭乱" と言います。
因みに、"倭" と言う言葉は、半島では「小さくて醜い」、"乱" と言う言葉は、「家臣等が主人に対して謀反を起こす」意味があり、つまり醜い日本人が、主人である朝鮮人に対して起こした謀反と言う意味となります。
又、"朝鮮征伐" と言う言葉は、明治期に使われた言い方で、秀吉自身は"唐入り"と呼んでいました。
信長が存命中だった天正5年(1577)、秀吉は、信長に中国攻めを命令された折にこう言っています。
「中国地方や九州地方の平定など容易い事です。九州を平定した段階で、その兵と1年分の年貢を頂戴出来れば、朝鮮に攻め入り大明まで攻め取りましょう。そこで少し休ませて頂きたい。」と。
秀吉は、中国毛利攻め以前に唐入りを考えていたのです。
秀次は、秀吉の姉・智の子であり、秀吉の甥ですが、小牧長久手の合戦では、10代の若武者にも関わらず秀吉軍の総大将に抜擢されています。
しかし、相手は大御所・徳川家康だったので、17歳の戦闘経験もない秀次は、やすやすと大敗を期しています。
秀吉は、その時、秀次に叱責の文を送っています。
「お前は秀吉の甥などと言って、威張っているが沙汰の限りだ。そんな事を言わないでも誰でも秀吉の甥として尊敬するだろう。お前の行動は何とも許し難いが、気の毒だと思って手紙を書いた」。
﹅太閤秀吉と関白秀次誕生
天正17年(1588)11月、朝鮮使節団が訪れ、京都、聚楽第で秀吉に謁見します。
朝鮮側の国書は、天下統一を祝賀する穏当な内容だったそうですが、秀吉は、中々返事の国書を使節団に渡さず、秀吉が返事の国書を渡したのは、使節団が帰国する日でした。
秀吉は、朝鮮の王を"閣下" と書き、使節団に尊大な態度で命令を出します。
自分の敬称は"殿下" なのですから、朝鮮の王を自分より一段格下と見なしていたのです。そして、こう伝えます。
「日輪の子たる余が、明へ攻め入る際、貴国は案内役をせよ」。
秀吉は、朝鮮が服従を誓ったのだと見当違いをしていました。
ところで秀吉には、この時はまだ、後継ぎがいなかったので、もし子が出来なかったら秀次を豊臣家の後継者にしようと考えていました。
天正19年(1590)の年、秀吉は、弟・秀長、第一子・鶴松を相次いで亡くします。
乱心した秀吉は、茶人・千利休を切腹させるなど、一連の悲運と過ちを経験します。
10月になり、 加藤清正に朝鮮征伐の拠点を肥前(現・佐賀県)におき、名護屋城を築城せよと命じます。
朝鮮攻略は、秀吉にとって大きな賭けでした。
天正19年(1591)11月、鶴松を亡くした事をキッカケに、秀吉は秀次を養子にします。
天正19年12月に入り、関白職を秀次に継承し、自身は関白を引退し太閤となります。
24歳の関白は、日本史上初だったそうです。
関白職を秀次に譲った事を機に、秀吉は伏見城に居を移し、代わりに秀次が聚楽第に入城します。
武家である者が、関白を退くと、本来なら公家である藤原摂関家に関白職を返上するのが筋でしたが、秀吉はそうしませんでした。
秀吉には、豊臣家を藤原摂関家と並ぶ、新しい摂関家として世間に認知させたいと言う目論見がありました。
■出陣・朝鮮征伐
文禄元年(天正20年)(1592)3月、遂に秀吉勢は、朝鮮に向かって出陣します。
先鋒は、小西行長軍、加藤清正軍の総勢15万余人の大艦隊でした。
4月12日、豊臣艦隊は釜山に上陸します。
釜山の城を落城させ、豊臣軍はソウルを難なく陥落させます。
朝鮮側は、よもや日本の軍とは思わず、倭寇の軍だと勘違いしていましたし、又、根拠のない自信に満ち溢れる李氏朝鮮は、日本の軍は無能だと侮っていました。
当時のアジア圏の軍事力は、日本軍が最強でした。
戦国時代に鍛え抜かれた兵士、何よりも世界一の性能を誇る鉄砲隊の強さ。
出陣して2ヶ月足らずで平壌も陥落します。
朝鮮王は、長年の慣習となっている逃亡を図り支那の明に助けを求めます、地元民衆は迫り来る豊臣軍にゲリラ戦で対抗します。
李舜臣(リシュンシン、朝鮮読み・イスンシン)は、亀甲船を出撃させ、艦隊を攻撃すると、豊臣艦隊の物資補給路は水陸共に絶たれました。
その頃、秀吉は名護屋城で淀殿、松の丸殿の2人の側室と仲良く睦み合っていました。
文禄元年(1592)7月、聚楽第(京都)で大政所(秀吉の母)が逝去します。
大政所は、朝鮮征伐に最後まで反対していました。
秀吉は、大急ぎで京都に戻りましたが、臨終には立ち会う事が出来ず、悲しみのあまり気絶したそうです。
年が明け、文禄2年(1593)、朝鮮半島に展開していた豊臣軍は、急速に士気を低下させていました。
寒さと病に悩まされ、猛将・加藤清正でさえ秀吉への報告の中で"4月まで保たない" と吐露していました。
兵力は、6割にまで減少し、逃亡兵も後を絶ちませんでした。
文禄2年(1593)5月、小西行長が明の使者を伴って帰国し和睦案を進めます。
しかし、秀吉は「朝鮮の半分を日本領とし、明の皇女を入内させ、朝鮮王子は人質とする」と告げました。
和睦交渉は頓挫します。
そんな折、文禄2年(1593)8月3日、淀殿は第二子、お拾い様(後の豊臣秀頼)を産みます。
自分に世継ぎは出来ないと言う、秀吉の目算は外れ、結果、愛情は一気に関白・秀次からお拾い様に移ります。
秀吉は、喜びを露わにし、大坂へ戻ります。
ただ、この頃秀吉は、九州・肥前を本拠地としており、長年、子が出来なかった事もあり、秀頼は、秀吉の本当の子ではないのではないかと言う説も未だ後を絶ちません。
﹅関白・秀次切腹事件と秀吉の病
秀吉は、秀次に関白職を譲った事を後悔する様になりました。
秀吉は、甥である秀次を、十八番の調略で葬ろうと企て石田三成に命を下します。
豊臣家中の子飼いは、武断派(武家)と文治派(奉行)に二極化が進み、溝が深まりつつありました。
武断派の筆頭が加藤清正。
文治派の筆頭が石田三成でした。
小西行長、石田三成共に朝鮮征伐には元々反対でした。
文禄4年(1595)7月、突然秀吉は、謀反の疑いありと言って三成に関白・秀次を詰問させ、伏見城に呼び寄せて関白職の更迭を言い渡し、秀次を高野山に追放した上、福島正則に命じて切腹させる事件を起こしました。
更に、秀次の妻、妾等数十名は、京の三条河原に連行され磔にされます。
この関白・秀次切腹事件をキッカケに聚楽第は取り壊され廃城となりました。
ただし、切腹事件は、秀吉が切腹せよと言い渡したのか、秀次が自ら切腹したのかと言う事が記録にはありません。
一連の事件は、秀次が切腹した事で、太閤秀吉の権威と信用を結果的に失墜させてしまいました。
研究者の中には、秀次切腹事件の前後から秀吉は、夜尿症を発症し、床に伏せていると思えば深夜徘徊するなど、所謂痴呆症を発症していたのだと指摘する人もいます。極端に判断能力が低下していたのもその為です。
三成は、病状が進行し、政務の采配も最早出来なくなった秀吉に代わって、無意味な朝鮮征伐に何とか終止符を打とうとしました。
小西行長及び文治派(奉行人)と手を結び、朝鮮と和睦協定を締結しようと奔走していた小西行長は、秀吉を欺く情報操作を仕掛けた為、秀吉の怒りを買います。
支那の大明からの国書を偽造したのです。
慶長2年(1597)6月、これをキッカケに秀吉は、再度朝鮮に14万の大軍を出撃させます。
二度目の朝鮮征伐です。
乱筆乱文長文駄文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
出典:完全制覇 関ヶ原大合戦 外川淳著、関ヶ原合戦と石田三成 矢部健太郎著、その時歴史が動いた Wikipedia Japan、豊臣秀吉 天下人への道 歴史と文学の会編者、逆説の日本史 井沢元彦著、秀吉の天下統一戦争 小和田哲男著