・・『Zipangu』Is Japanese
Big Picture First.
Please Don't Korea❗️
Truth ・・真実は動き始めた
2020年(R2)、Big China、Small China(SpecialAsia)3国は呪詛、憎しみ、Ttongsulに満ちていた。
The XXX Files ・・・20th .
Future Generation !
真実と闘え・・・
Zipangu Independence Banzai⁉️
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
Sub Title "Back To 戦国 Beginning"
(FunnyBomb).
■正統性の創造
秀吉は、元々信長に気に入って貰い織田家の中で立身出世して行くと言う人生設計を立てていました。
草履取りも墨俣一夜城も、信長の四男、於次丸(オツギマル、羽柴秀勝)を養子にしたのもその為です。
しかし、本能寺の変で信長が急死した事により、思いがけず、自分が信長の後継者として天下人になってしまいました。
その為、秀吉は、急速に天下人となる要件、つまり正統性を創造しなくてはならなくなりました。
世の中が、自分を天下人と認める事の出来る正統性です。
いくら、武力により天下布武を成し遂げても、人々がそれを正統なものとして認めなければ、極めて短期間で政権は崩壊するからです。
信長の場合は、平氏の姓を獲得し、安土城に神殿を建設し、自己神格化を図る事で正統性を構築しようとしました。
しかし、秀吉の場合は、姓を獲得する所から苦慮しています。
最初は、信長により追放された室町幕府最期の将軍・足利義昭に取り入りましたが相手にされませんでした。
秀吉は、諦めずに朝廷に取り入り、官位を得ようと奔走します。これが、最高の正統性の根拠となるからです。
以前、源氏・鎌倉時代の投稿で源平藤橘と言う姓と官位について書きました。
秀吉は、摂関家、藤原氏の官位を得ようと画策します。
天正13年(1585)7月、藤原摂関家の中でも五摂家の一つ近衛家の養子となり、秀吉は藤原(近衛)秀吉となり、関白の地位を手中に収めました。
余談ですが、朝廷の官位目当てで、公家の養子に入る事を猶子(ユウシ)と言います。
秀吉は、信長と違って天下人になる準備が不足していました。
寝耳に水の信長暗殺により、突如そのポストについたからです。
因みに、本能寺の変の黒幕が秀吉ではない事は、大半の歴史家や作家が支持するところで、状況証拠としても限りなく白です。
ところで、関白とは何か。
関白とは「天下の万機を関り(アズカリ)白す(モウス)」職と書き、国政を総覧する臣下第一の職となっています。
関白とは、あくまで天皇と協議し政務を処理する天皇の補佐役です。
これには、公家・寺社の実質的支配権も含まれています。
ところが、征夷大将軍には、公家・寺社の支配権はありません。
この事から、秀吉は将軍になれなかったから、関白になったとは言えず、最初から関白を目指していたと考えられています。
なお、摂政とは、天皇が幼児や疾病などの場合、全権を担って政権を運営する者です。
一度、摂政となった者は、その後、天皇が元服(成人)した場合、そのまま関白職に移行するのが一般的だと言われています。
■源平藤橘・豊臣
武家出身でもない人間が関白にまでなってしまいましたが、しかし、秀吉はそれだけでは不十分だと思っていました。
関白となっても、単に藤原氏の一員に過ぎず、もっと言えば藤原氏の直系では勿論なく、一養子(猶子)の立場でトップにはなれません。
トップでなければ、つまり誰かの命令に従わなければならないのです。
当時の姓とは、自分がどの血統に属しているかを示すもので、朝廷から与えられるもの、若しくは世襲的に親から受け継がれるものです。
その代表例が「源平藤橘」なのです。
対して、苗字とは居住地や職業を表すものでした。
例えば、足利尊氏と新田義貞と言う名は、氏名です。
しかし、二人は同じ源氏の血脈、すると公には、姓名が源尊氏であり源義貞なのです。
例えば、新田は上野国(コウズケノクニ)新田郡出身だったので、新田義貞なのです。
日本では、源平藤橘が主な姓ですが、人口比ではそんなに多くありません。
そこで、秀吉は「豊臣」と言う新しい姓を創設すると言う暴挙に出ます。
つまり、源平藤橘と同格の姓として豊臣姓が追加されると言う事です。
それは、藤原秀吉から豊臣秀吉に姓を変える事です。
これは、藤原摂関家に並んで、豊臣摂関家と言う新たな家系が創設されたと言う意味でもあります。
当時としては前例のない事ですが、姓を変える事自体は過去になかった訳ではありません。藤原氏の父祖、藤原鎌足は元は中臣鎌足なのですから。
天正14年(1586)9月、秀吉は、天皇から豊臣と言う姓を下賜されます。
因みに、関白の敬称は殿下、関白の妻は、政所なので、おねは北の政所、母・なかは大政所、そして太閤とは、関白を引退した人を指します。
"末世とは、他にはあらじ木の下の、猿関白を見るにつけても" 。
これは、後世の誰ともなく詠(ウタ)われた太閤秀吉を揶揄嘲笑する一句です。
「豊臣と言っても、元の姓は木下、あだ名は猿だったのだろう」と皮肉ってるのです。
つまり「世も末だ。元は猿と呼ばれ藤吉郎と言う名だった足軽が今は関白なのだから」と言う意味です。
この句に表れている様に、空前絶後の出世物語には、そもそも無理があったと言う事です。
戦国大名の正統な血筋である、信長や家康ならここまで揶揄嘲笑される事はありません。
その「無理」を解消しなければならないと言う苦悩が、秀吉には生涯付きまといました。
豊臣と言う姓を新設したのは、正統性の創造であると同時に、その無理を解消する手段の一つだったのです。
■小田原攻め・聚楽第築城
秀吉は、関白に就任した事を機に、京都に関白職の公邸として、城を築城しました。
天正14年(1586)2月に普請を始め、翌年完成します。
その関白の公邸を"聚楽第" (ジュラクテイ)と言いました。
聚落邸と書く場合も同じ意味、同じ読み方になります。
天正15年(1587)9月、秀吉は、大坂城から京都の聚楽第へ移り住みます。
聚楽第は、本丸天守閣、北の丸、西の丸、南二の丸、諸大名の公邸、堀等が装備された豪華な城郭でした。
天正16年(1588)4月16日、秀吉は、諸国の大名に上洛命令の書状を送り、後陽成天皇(ゴヨウセイ)を京都の聚楽第に迎えて、諸大名に忠誠を誓わせました。
これを後陽成天皇の聚楽第行幸と言い、自身の城に天皇をお迎えする事は、秀吉にとって、更なる権威の裏付けとなりました。
行幸(ギョウコウ)とは、天皇が外にお出かけになる事を言い、御幸(ミユキ)とも同意となります。
しかし、小田原城主、北条氏政、氏直親子だけが、この天皇の聚楽第行幸に伴う秀吉の上洛命令を拒否しました。
討伐の大義名分が揃った秀吉は、天正17年(1589)12月、北条氏討伐の下知を出します。
北条も、秀吉との戦は避けられないものと覚悟していました。
北条の兵力は、約5万余人(数字には諸説あり)。
対する秀吉勢は、今や徳川と言う強いバックも取り込み、総勢22万余人。
天正18年(1589)2月7日、家康が秀吉方の先鋒として駿府城(府中城)を出陣します。
秀吉も、3月1日京都を出発。
4月6日、湯本の早雲寺(神奈川県箱根町湯本)に本陣を構えると共に、小田原城を見下ろす事の出来る石垣山(小田原市)に一夜城築城を命じます。
因みに家康は、この時一夜城の陣中で、秀吉から江戸への国替えを通告されると共に、先祖伝来の三河を手放すにも関わらず二つ返事で受諾したそうです。
小田原城は、大坂城に並ぶ巨大な城で、長期の籠城戦にも強い城郭を誇る巨城でした。
過去には、上杉軍、武田軍の城攻めにも見事打ち勝ってきた実績があります。
籠城戦は、3ヶ月に及びましたが、一夜城の出現に戦意喪失と絶望感を覚え、敗北を悟った北条方は、7月5日、遂に小田原城を開城。
城主、北条氏直の切腹と引き換えに城兵の無罪放免を条件に、北条は降伏しました。
しかし、秀吉は、家康の娘と縁のあった北条氏直を切腹とせず、高野山追放にとどめ、代わりに北条氏政、氏照、重臣・松田憲秀、大道寺政繁等を切腹に処しました。
奥羽の米沢城(山形県米沢市)城主・伊達政宗は、北条氏と同盟を結んでいました。
小田原が秀吉領となった事を背景に、奥羽の伊達政宗も豊臣配下となります。
独眼竜・伊達政宗は、豊臣政権が崩壊し江戸時代に入ると、仙台藩主となる人です。
ここに、秀吉の全国統一が完成します。
■伴天連(宣教師)追放令
ポルトガル人は、それまでアフリカなどで奴隷貿易を営んできましたが、15世紀にアジアに進出すると東洋貿易を独占し、支那人を奴隷として買い込み、各地に売り飛ばす奴隷貿易を始めました。
日本においては、天文12年(1543)にポルトガル人が初めて種子島に漂着し鉄砲をもたらしましたが、その数年後から早くも日本人を安く仕入れ、奴隷として海外へ売り飛ばす奴隷貿易が始まりました。
その結果、16世紀の後半には、ポルトガル本国や米国、メキシコ、アルゼンチンにまでも日本人奴隷は売られるようになり、天正10年(1582)に ローマに派遣された天正遣欧(ケンオウ)少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の境遇に置かれている事実を目撃して驚愕しました。
次の会話は、その時のものです。
﹅日本人の奴隷売買
「我々の旅行の先々で、売られて奴隷の境遇に落ちた日本人を身近で見たときには、こんな安い値で小家畜か駄獣(牛や馬)の様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい怒りに燃え立たざるを得なかった。」
「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へ、あんなに安い値で掠って行かれ売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか。」
日本人奴隷には、女子供も含まれていましたが、日本人女性の売買は特に盛んで、殆どはポルトガル人の労働者などの慰み者、性奴隷にされ、運搬途中の船内では下半身を露わにされ、鎖に繋がれ首輪をはめられて弄ばれていたと伝えられます。
体には、家畜と同じように焼印をつけられ、抵抗すれば鞭などで自由に懲罰を与えられていました。
※天正遣欧少年使節とは天正10年(1582)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣され、8年後の天正18年(1590)に帰国した4名の少年を中心とした使節団の事で、イエズス会員のヴァリニャーノが発案しました。
使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になました。
﹅怒る豊臣秀吉
天正13年(1585)、博多でイエズス会(耶蘇会)のリーダーをしていたガスパル・コエリョは、明より先に日本を征服する様フィリピン総督宛に意見書を送ります。
この年、秀吉は関白に出世しています。
秀吉は、大坂城にコエリョを招き、大型帆船2隻を船員付きで売ってほしいと頼みます。交換条件として提示したのは、明でのカトリック布教の自由でした。
しかし、コエリョの矛先は、明らかに日本征服にありました。
秀吉は九州征伐の直後、ガスパール・コエリョに対し、「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」と詰問しています。
南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱いた筈です。
「九州御動座記」によれば、秀吉はこう言っています。
"バテレンどもは、諸宗を自分達のキリスト教に引き入れ、それのみならず男女数百の日本人を黒船へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の苦しみ以上に、生きながらに皮をはぎ、あたかも畜生道の有様である。" と。
※バテレン とは伴天連と書き、ポルトガル語の Padre ( パ-ドレ、師父)の意味から、キリスト教伝来に際して渡来した宣教師を指す言葉です。
乱筆乱文駄文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
出典:完全制覇 関ヶ原大合戦 外川淳著、関ヶ原合戦と石田三成 矢部健太郎著、その時歴史が動いた Wikipedia Japan、豊臣秀吉 天下人への道 歴史と文学の会編者、逆説の日本史 井沢元彦著、秀吉の天下統一戦争 小和田哲男著