夢幻の天下布武4 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・『ZipanguIs Japanese 

Big Picture First. 

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

Zipangu Independence Banzai⁉️

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   We Are Sumer Japanese・・

   Sub Title "敦盛"

   Han-nichi Key Words Laboratory .

FunnyBomb.

 

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■大うつけと言う仮面

   ルイス・フロイスの「日本史

   貴重な第一次資料です。

   この中には、フロイスが見た信長の人となりが克明に記されています。

・・信長が、手でちょっと合図するだけでも、家臣達は極めて凶暴な獅子から逃れる様に、重なり合う様にして、ただちに消え去りました。そして、信長が、内から一人を呼んだだけでも、外で百人が極めて抑揚のある声で返事しました・・・。

   これは、信長の日常の様子を示したものです。信長の絶対君主ぶりが伺える内容であり、信長に対し、織田家中の者が如何にピリピリと張り詰めた気持ちで接していたかが伝わってきます。

 

・・(信長は、酒を飲まないので)夜更かしせず、毎日の生活は自ら律していた。食を節し、自らの見解に尊大で、良き理性と明晰な判断力を有していた・・・。

   この事からは、規則正しい生活態度、当主としての威厳を放ち、頭脳明晰だったと言う事が伺えます。

   朝は、早くに起床していたようです。

   世間が侮蔑して使った言葉、大うつけと言うのは、客観的に見ると他人をカモフラージュする為の「仮面」の姿でしかないのです。

   信長の本当の実像ではありません。

   間違っても、物の分別がつかない、他人の迷惑も顧りみず、乱暴狼藉を働く無法者ではなく、理性と判断力に富んだ人間像が見えてきます。

 

   信長は、織田家の中では、言わば絶対君主であり、部下の忠告を聞き入れる事など絶対にあり得ず、例え、たった一銭の窃盗犯でも、猥せつなどの軽微な罪も、一線を超えたらその場で斬り捨てると言った、不逞の輩に対しては断固とした正義の鉄槌を下すという側面がありました。

 

■信長の冷酷性は厳格な正義の表れ

   またフロイスは、信長に関して、こう書き残しています。

   (信長公は、)軍事的修練に勤しみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた屈辱に対しては懲罰せずにはおかなかった」。

   信長の正義は、次の様な物にも表れています。稲葉山(現・岐阜市)の城下町の加納市場に張り出された制札に書かれた条文です。

・・・

一、加納市場に移住した者は、信長領内を自由に通行させる。借金、借米、借地料、その他諸税負担は、一切免除する。織田家家臣と言えども、制札に反して彼等に圧迫を加えてはならない

一、力に物を言わせた押し売り、狼藉、喧嘩、口論はするべからず

一、不法な用件の使者を市場に入れ、宿泊させ、横暴を働かせてはならない。・・・

 

   永禄1010月日・・・織田信長

 

■人に厳しく自分にも厳格である事

   つまり、これらを要約すると、信長は"人に厳しい態度や順法精神を求める反面、自分に対しても厳格な態度で臨み己を律する性格" であった事が分かります。

   一向宗との十年戦争を例に考えると、

   一向宗や天台宗が犠牲になったのも、動機は相手側にあり、先制攻撃を仕掛けたのも相手側と言う事が明らかになっています。

   寺社の経済力、軍事力に物を言わせて、不逞を働き、仏門にあると言う立場を利用しての不逞行為に対して、信長流の正義の鉄槌が振り下ろされた結果と考える事が出来ます。

 

■比叡山焼ちと信長

   信長の残虐性を指摘する根拠に、無差別な民衆や僧侶の大量虐殺、またドクロ杯の事例が取り沙汰されます。

   少なくとも、時代は戦国時代、乱世です。

   十字軍が、異教徒を無差別虐殺する組織という視点では、聖なる軍隊と言い切れない様に、当時の一向宗や法華宗などの宗教団体も民衆の模範とされる聖人とは、とても言い切れない側面があり、宗教の腐敗と権力構造が問題となっていました。

   信長が、叡山を焼き討ちにしたと言うのは、その一部をクローズアップするから、強調されて残酷に見えるだけなのです。

   実は、天台宗・叡山勢力や一向宗勢力は、信長以上の大量虐殺を犯しています。

   信長の天下布武には、宗教勢力の権力化と利権、腐敗構造を打破し、世の中を正常に導くという暗黙の目標も含まれていました。

   国史大辞典などによれば、天文法華の乱・・・とは、

   天文(テンブン)5年(1536年、比叡山延暦寺が、高野山、根来寺、三井寺、東大寺、石山本願寺等から援軍を得て叡山勢力は15万人となり、京都法華宗、総勢3万人を虐殺した・・という事件。

   これを災害の面からみると、被害は応仁の乱を遥かに上回り、罹災そのものの規模は天明の大火に匹敵した・・とあります。

   筆者によれば、これは最早戦争であり、法華宗には1万人の死者(犠牲者数には諸説あり)、特に女子供には数百人の犠牲者が出た、この戦争を仕掛けたのは、比叡山延暦寺だと言います。

 

   では、信長の比叡山焼討ちの犠牲者は、何人だったのか

   法華宗の死者よりも6千人少ない凡そ4千人です。こうした言い方をすると支那人に怒られますね。"数の問題じゃない"と。

   ですが、そういった発想こそ未開な考え方なのです。

   自分らが虐殺した1万人よりも、お前らが虐殺した4千人の方が残虐なのだと言うロジック・・。

   文字に起こしても、余りに未開な話です。   

   しかし、信長の比叡山焼き討ちが残酷だという評価は、詰まる所、そういうロジックなのです。

   時代は戦国時代です。女子供を虐殺したのは、信長だけではなく、宗教勢力も同じなのです。

 

 

■信長宗教戦争

   信長と宗教勢力との血みどろの十年戦争の幕が上がります。

   実は、信長は確かに宗教団体と交戦し、多くの虐殺者を出しましたが、所謂宗教団体の弾圧はしていませんでした。

   それは、現在も第一次資料、本願寺所蔵の信長の朱印状に記録されています。

   朱印状には箇条書きが記されていて、第1条には、惣赦免事(ソウシャメンゴト)と書かれています。

   "惣赦免事"とは、つまり、これまで織田家に敵対してきた罪は一切不問とし、全て赦免する。本願寺に属する全ての寺院は、参拝して構わないし、織田軍は寺院には手を出さない。

   という意味だそうです。

   信長は、それ以上本願寺を弾圧しないという事を確約していたのです。

 

   日蓮宗の開祖、日蓮は「法華経・絶対」を謳って「南無妙法蓮華経」を唱え、阿弥陀仏とは対立し、親鸞は「阿弥陀仏如来」を信じて「念仏」を唱える。

   信徒、檀家も宗派により対立する。

   叡山延暦寺の天台宗は「天台宗・法華経」を崇拝するが、日蓮宗とは激しく対立すると言う。

   叡山天台宗が日蓮宗と対立する理由・・それは、日蓮宗が「法華経・原理主義者」であり、過激思想だったからだと言います。

   

   現在、過去の戦争を考えた時、イスラエル、パレスチナ、イラン、サウジ、IS等々の血みどろの宗教対立、テロを目にする事があるでしょうか。

   あれらの争い事は、厳格な清教徒、原理主義者が考え方や主義の違いから異教徒とぶつかり合うから起こっている事に他なりません。東アジア、東南アジア圏でも、同様のテロ事件は起こっています。

 

■日本で宗教戦争が起きない理由

   では、何故日本では大きな宗教の対立、宗教戦争やテロ事件が起きないのか

   実は、信長が関わっていると言います。

   筆者によると、信長は天台宗の比叡山、長島一向宗、越前一向宗を皆殺しにしました。

   その際に、日本では、宗教の原理主義者、狂信者が根絶やしになったと言うのです。

   信長が起こした宗教戦争は、日本における宗教改革とも言うべき意義があり、宗教者側と信徒となる民衆側双方の日本人にとって、現在まで正の遺産・記憶として残ったのです。

 

   パレスチナ問題、アルカイダ、ISIS新疆ウイグルなどに見る戦争、テロ事件は、全て熱狂的な狂信者、原理主義者が中心に人殺しが行われています。

   新疆ウイグルでは、共産主義者が起こした訳ですが。

   理由は、一つとは言いませんが、大きな要因として、信長の宗教戦争によって、日本には狂信者、原理主義者が消滅してしまったから大きな戦争、事件が起きないのです。

 

■石山本願寺と信長の十年戦争

   これを語る前に、信長は無神論者だったのか否かを考えてみます。

   無神論者だったが故に、仏罰神罰を恐れずに宗教弾圧したのではないかという批評があるからです。

   信長公記に次の一節があります。勿論原文ではありません。現代語訳です。

   ・・・尾張国海東郡の大屋というところに、織田造酒丞の家来で甚兵衛と言う庄屋がいた。隣の一色村には、左介と言う者がおり、この二人は格別に親しい関係にあった。

   ある時、甚兵衛が年貢納入の為に清洲へ行っている留守に、左介が甚兵衛の家に盗みに入った。

   甚兵衛の女房は左介にしがみつき、左介の刀の鞘を奪った。それを証拠に甚兵衛が訴えて裁判になった。

   ところが、左介は信長の乳兄弟である池田勝三郎の家来であった事もあり、火起請で罪を確認しようと言う事になった。

火起請(ヒギショウ)〜真っ赤に焼けた鉄の斧を持って、火傷したら有罪。無傷だったら無罪と言う裁判法)

   ところが、左介は斧を落とした。当然、有罪と言う判断だが、その頃池田家の侍は、信長の威を笠に着ておごっていたので、これを強引に無罪にしようとした。

   その時、信長様が通りがかり、双方の言い分を聞いて顔色を変えた。

   信長様は「どの位鉄を焼いて持たせたのか」と尋ね、鉄をよく焼かせた上で「余がこれをうまく取る事が出来たら、左介を成敗するから心得よ」と念を押した。

   そして、その真っ赤に焼けた鉄を握って三歩あゆんで「見たか‼️」と叫んで左介を斬り捨てた。・・・

 

   これが意味する事は、信長の凶暴性や窃盗程度で死刑とは罪が重いという事もありますが、根本はそこではなく、この原始的で迷信に満ちた裁判法を信長が信じていたと言う事です。合理的で無神論者であれば、この様な迷信めいた裁判法を使う事もありません。

   信長は、桶狭間出撃の途中で熱田神宮に立ち寄り戦勝祈願したと言うエピソードもあります。

   無神論者だったから、宗教弾圧したとは断言出来ないのです。

 

■武装宗教組織を討伐する⁉️

   当時の宗教団体として、最大の経済力、軍事力を保持する一向宗(今の浄土宗・浄土真宗)は、武田軍、上杉軍よりも軍事力は上だったとも言われ、宗教団体にも関わらず、軍隊はおろかまで保有していました。

   信長は、実は一向宗との戦争で、奇襲も先制攻撃も使っていませんでした。

   天正2年(1574年、第3次石山合戦では、伊勢長島の一向一揆を打ち滅ぼしていますが、この際、一向宗を討った動機となったのは、一向宗側が尾張の信興(信長の弟)の居城を先に攻め織田側に戦死者が出たからです。

 

   石山本願寺の軍勢と浅井朝倉連合軍、そして甲斐の武田軍は、裏で手を結び、連携して織田軍に波状攻撃を仕掛けていきます。

   伊勢長島でも、石山でも先に攻撃を仕掛けたのは、一向宗側だったのです。

   一向宗側の最高責任者、本願寺宗主(代表者)は顕如(ケンニョ)と言う大僧正でした。

   信長に対して挙兵した顕如の大義名分は第一次資料の「本願寺史」に残されています。

   元亀元年に書かれたものです。

・・・信長が上洛して以来、随分と迷惑し様々な難題を押し付けられ、2年前より応じてきた。しかし、その効果はなかった。この度信長から「本願寺を破却する」旨、確かに通告があった。この上は、最早やむを得ない。信長に屈する事の無きよう、信徒の方々は身命を顧みず本願寺に是非とも忠節を尽くしていただきたい・・・

 

   イスラム原理主義者は、現代においても独自軍(ゲリラ)を持っています。

   戦国時代、石山本願寺も独自軍を保有し、宗主顕如は、信徒に決起を命令しています。

   筆者は言います。

   ・・この時代、宗教団体といえども、武力を持つ時代で、非武装中立とか専守防衛などと言ってたら山科本願寺の様に皆殺しにされてしまう、攻撃が予想されるなら先制攻撃もやむを得ない、と。

   重要なのは、信長が本当に「本願寺を潰す」と言う趣旨の事を言ったかどうかです。

   これについて、一向一揆研究者の1人がこう指摘しています。

・・・(顕如が信徒に)決起を促す為のゲキと言う性格上、本願寺が総て事実を述べていると、見る事も出来ない。奇妙なのは、本願寺に「破却する由」を既に通告した信長が、何故本願寺からの至近距離で、戦闘中に不意打ちを受けるのだろうか。もし、破却すべき由の通告が事実と仮定した場合、信長の行動は明らかに矛盾している・・・。

 

   顕如は、将軍義昭とも密接な関係があったと言います。

   天正元年、信長が義昭を追放し、浅井朝倉が自害した年、顕如は、信長に茶器を贈り、和睦を求めます。

   2次講和です。

 

   この後も、十年戦争は、信長の天下布武の軌跡と共に進んでいき、最終的に天正8年(1580年双方の間で最終講和を締結し幕を降ろします。

 

   To be Continue 

 

出典:逆説の日本史 井沢元彦著

Wikipedia Japan

天下人の夢 津本陽、二木謙一著

織田信長辞典 西ケ谷恭弘著