ユダヤ神の潮流vol.9 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

The XX Files 16th・・・

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Sub Title "Sumer・Babylonia02"

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⬛️バビロニア国誕生

   Babylonia、バビロン(Babylonは、ヘブライ語版旧約聖書にShinar(シャイナー?)と言う語句で何度も登場しますが、この言葉の語源は「シュメール」から来ているそうです。

   BC1830年ごろ、この地に定住したアモリ人(アムル人)の王、スムアブムが自らの王朝を建設しました。

   それが、バビロン第1王朝BC1894~約1595)です。この第1王朝が、後に古バビロニアと呼ばれ、その後、バビロン王朝は大別すると10王朝まで存在します。

   カルデア人が統治した時代から「新バビロニア」と位置付けると言う観点からは、むしろそれ以前の時代全体を捉えて(トラエテ)古バビロニアと定義付けるのかも知れませんが日本ではよく分かっていません。

   この第1王朝は、その後6代目のハンムラビ王(BC1728年以降)の時代に最初の隆盛期を迎え、バビロニアを古代オリエント社会(現中東)で最も強力な都市の一つに押し上げました。

 

◆古バビロニアの王・ハンムラビ

   ハンムラビ王は、外交に長け、灌漑農業、巨大建築、厳格な行政運営と、アッカド語で編纂した法体系によって国家を内政面から強化する事に成功しました。

   また、王は都市国家イシンとウルクを支配し互いに争っていた無数の小国家を併合し、アッシュール(アッシリア国発祥の地)やニネヴェ(後のアッシリア国首都)などの有力都市国家も王の勢いに屈服せざるを得ませんでした。

   王は、ペルシャ湾から北のシリア砂漠まで至る領土に大帝国を築く事に成功します。

   しかし、ハンムラビ王の後継者には有能な政治家がおらず、国内には内乱が絶えませんでした。

   他国は、バビロニアの内乱に乗じて侵攻を試みバビロニアの国力は弱体化していました。

   その頃、ザグロス山脈の山岳民族カッシート族、アナトリアのヒッタイト国、ユーフラテス上流のミタンニ国、そしてアッシリア国等がオリエント世界の中でひしめき合っていました。

   中でも、バビロン第3王朝はカッシート王朝(BC1475~約1155)とも呼ばれ、これはカッシート族が王族としてバビロニアの政権を運営していました。

   カッシート族もシュメール文明を継承する民族でしたが、カッシート族は、次第に頭角を表すアッシリアと交戦し敗れます。

   カッシートの王はアッシリアの捕虜となり、その後カッシート族は歴史の舞台から永久に消え去りました。  

   この時、イシン2王朝ネブカドネザル一世(アムル人。BC1146年~1123年)がバビロンの権力を手中に納めます。

   イシン第2王朝(BC1146~約1025)は、バビロン第4王朝とも呼ばれます。

   ネブカドネザル一世は、バビロンを脅かす勢力・エラム族に決戦を挑み、10年以上の長い時間を費やし、エラム族勢力を撃破します。

   王は、彼等エラム族がバビロンから掠奪していったハンムラビ王の石碑やマルドゥク神の偶像を奪還し、再びバビロンへ持ち帰りました。

   ハンムラビ王の石碑とマルドゥク神の偶像が同一の物かどうかは文献が少ない為、一般人の私には分かりません。

   しかし、一つ言えるのはアムル人の統治したイシン第2王朝では、この偶像や石碑の奪還が、政治的、宗教的に相当重要だったそうです。

   一方、領土を拡張しようとするバビロニアを疎ましく思っていたアッシリア国は、その勢いを止めるべくバビロニアに侵攻を開始します。

   国王ネブカドネザル一世は、籠城戦を強いられ城に立て篭もりますが、BC1110年王が他界した事を契機に、バビロニアは敗戦します。

   敗れたバビロニアは、アッシリア国の手に堕ちます。

   文献の記録も断片的ですが、バビロン第10王朝と呼ばれるのが、彼等アッシリア人が統治したバビロン王朝であり、又、アッシリア国が最盛期の時代です。

   しかし、アラム人、北方アラブ種族、シリアと西イランの首長、エジプト、そしてエラム族達は、次々に各地を席巻し、他国を思いのまま征服を繰り返すアッシリアに憎悪の炎を燃やします。

   因みに、バビロン第7王朝(約BC984977)は、エラム王朝とも言われエラム人もバビロニアを治めた時期がありました。

 

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   アッシリアは領土拡張の為の無理な遠征や、内乱によって急速に国力を衰退させていました。

   アッシリア人は、自国はそのまま国家経営し、バビロニアを自治区の様な形態で統治していましたが、アッシュールバニパル王には、自国アッシリアとバビロニアの両国を国家経営する力は既に残っておらず、他国の侵略を防ぐ事も最早不可能でした。

   バビロンの主導権は、再度アラム人が掌握する事となります。

   アラム人はBC1000年以後、カルデア人と名を変えていました。

   この様に新バビロニア時代以前のバビロニアは、シュメールの遺産と名声を奪い合って様々な民族が代わる代わるBabylonia国家を喰い物としていたのでした。

   アッシュールバニパル王(アッシリア国)もネブカドネザル王(一世)(イシン第2王朝)も『自分が偉大な(シュメールの)文化を継承する末裔であり、そしてその文化を守り、それらを開花させる者である』と自覚していたそうです。

   つまり、アッシリア人も、アッカド族もカッシート人もアムル人も、そしてカルデア人も・・・

   シュメール(Sumerian)を追い求め、シュメール人に憧れたが故に、シュメールの承継国家・バビロニアを手に入れたいと言う欲求に駆られたと言う事を筆者(P・アイゼレ)は示唆しました。

 

To Be Continue 

 

 

出典:バビロニア・古代メソポタミア永久の夢の果てに(Petra Eisele著、片岡哲史訳)、wikipedia japan