・・『Zipangu』Is Japanese
Big Picture First.
・・Cause Miracle!Politics
・・・ Beyond The Past .
To The Future !
Now Main Stage・・It's・・・
Dramatic Politics!!!
Japan Is sanctuary .
J.FRB Han‐nichi Labo.
Please Don't Korea❗️
Long Time Ago・・
長い間、現実は歪められ、
情報は操作されて来た・・
Truth ・・真実は動き始めた
The XX Files ・・・Fifth .
Future Generation !
真実と闘え・・・
I Want It . To Believe .(Funny !)
Zipangu & Taiwan・・・
Independence Banzai⁉️
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
We Are Sumer‐Japanese・・
We Believe Batman ・・・
Even If Isn't You ⁉️
・・・ここで提議した隠されてきた親日国家と言うのは、Han‐nichi守旧派Media、またChina Money、ハニートラップ等に操られる民主党、社民党、山本太郎と愉快な仲間の党など反日国会議員のイメージ戦略によって、これら親日国家が日本に恨みを抱いている国々かの様な錯覚を魅せられていたと言う事を言いたかったのです。
つまり、台湾(中華民国)は戦後71年間ずっと超親日国であり続け、日本人に早く大和魂の記憶を思い出して欲しい、立ち直って欲しいと希求して来たにも関わらず、その事実が『報道しない自由』の行使によって隠されてきたと言う意味です。
■台湾住民の意識調査
2004年(H16)3月、台湾の総統選挙が行われました。
陳水扁、民進党の勝利でした。
国民党、親民党は負けたのです。
陳総統は、間違いなく台湾独立派の領袖です。
国民党の連主席は、選挙の無効と票の再点検を求めました。
陳氏にとって、選挙の無効は論外でしたが、投票の再点検には応じるとの意向を表明しました。
陳総統の一番の課題は野党との協力に努め民意を反映し、支那中共との交渉を有利に進める為の強固な足場を築く事でした。
一方、支那中共は、「一国二制度」をエサに、何とか台湾住民を取り込もうと多様な謀略を企てていたと言われます。
陳総統の再選により支那が目指す「一国二制度による平和統一」は遠のいていく様に思われました。
支那はこれ以前の総統選挙の時は、台湾北部の沖合にミサイルを撃って威嚇したり、政治的恫喝発言をしています。
それに比べ、この総統選挙は穏やかに済んでいます。
日本政府は、台湾情勢の急激な変化を好まず、台湾に慎重な対策を求める意向が強い傾向にありました。特に台中関係について。
ここに台湾の政治大学選挙研究センターが行った世論調査(2003年(H15)8月)があります。それによると
~中台関係についての設問
①中台間の直行便就航の時期は。
・ゆっくりで良い 52.6%
・早い程良い 28.8%
②支那の台湾に対する態度は。
・大陸当局は台湾当局に非友好的だ
70.9%
・大陸当局は台湾の住民に非友好的だ
50.7%
③支那の一国二制度に賛成か
・賛成 8.3%
・反対 74.9%
④今後の中台関係の方向は独立?統一?
・現状維持、将来決める 34.3%
・永遠に現状維持 17.2%
・現状維持、将来独立 14.4%
・ただちに独立宣言 7.2%
・現状維持、将来統一 13.2%
・ただちに統一 2%
つまり、圧倒的多数の台湾住民は、平和裡でも台中統一を望んでいないのです。いくら支那が一国二制度を大声で喚いても答えはノーなのです。
■台湾の生い立ち
台湾は、1544年ポルトガル船によって発見されました。
元々台湾には、フィリピンから渡来した文化も波及しています。その時期は、考古学上、石器時代から始まったと推測されます。
しかし、支那との交流は意外に新しく、明王朝からと言われます。
1. オランダ東インド会社と鄭成功(テイセイコウ)
15世紀末からヨーロッパ諸国の新航路発見とアジア進出が始まり、ポルトガル人は支那南部を経て北上し、日本にも渡来します。
オランダ東インド会社は、アジア市場開拓を目論み、特に支那と日本との通商を行う為、艦隊を派遣しましたが、現地の反抗にあい撤退を余儀なくされ、その矛先を台湾に向けました。
オランダは、意欲的に台湾の植民地化を進めました。が、オランダよりも先に台湾と交易をしていた日本と衝突し、1628年、濱田弥兵衛事件が起こります。
濱田弥兵衛とは、日台貿易に関わった江戸時代の朱印船船長です。
台湾独占を画策したオランダが、過酷な関税を課し、日台貿易の妨害の挙に出た為、武装した日本人4百余名を率いて台湾に乗り込んだ濱田らが逆に拘束され捕虜となった事件です。
後に日本人捕虜は釈放され、オランダは幕府に詫び状を提出、日本との交流を再開しています。
オランダの台湾占領政治は、悪政で現地から歓迎されるものではありませんでした。
台湾に多く群生していた鹿を絶滅まで追い詰めたのはオランダ、人頭税や漁業税、法外な関税などは、過酷な物が多く、各地で住民の抵抗運動が絶えませんでした。
抵抗運動によって、オランダの力が弱まったところに鄭成功が来襲し、オランダは鄭成功に降伏、1662年、植民地統治が終焉します。
鄭成功は支那人でしたが、母親は長崎出身の日本人でした。
オランダ撤退後の台湾は、再度鄭氏政権による圧政が再開されただけでした。
そこに清朝の謀略戦が加わり、鄭氏政権内部は現地の抵抗勢力により大パニックを弄し、僅か23年間の統治を終えます。
2.清朝の台湾統治
台湾は、清朝の手に堕ちます。しかし、時の皇帝、康熙帝は台湾に領土的野心はなかったと言います。
「反清復明」(ハンシンフクミン)の鄭氏を、打倒したかっただけとも言われます。
以後、約2世紀に亘る清朝の台湾統治が始まりました。
3.先住民族の漢化
台湾の先住民は、日本では高砂族で名が通り、WW2では遊撃戦などで日本の国益に大きく貢献しました。
彼等は人種的にはプロト・マレー系でオストロネシア語族の言語を話す人々で、狩猟、漁業、焼畑農業などを営んで生活していました。
厳密には、一つの同質の民族でなく、それぞれが異なる風俗、習慣を持つ小グループに分かれていました。
清朝は、占領当初から先住民の漢化を行い、漢字の苗字を強制的に名乗らせた、中でも、潘、劉、陳、林、李が多かったと言います。
漢人と先住民の婚姻、混血化に力を注ぎ、台湾の漢化は浸透していきます。
■日本統治下の台湾
1.日清戦争と台湾
日本は、明治維新後、日清両国に従属していると見られる沖縄の帰属を明確にしたいという欲求と、清国がその領有に消極的な台湾を自国の勢力下に置きたいという野心を抱きました。
その矢先事件が起きます。
1871年(明治4年)、宮古島住民六十数人が台湾に漂着し、五十数人が先住民に殺されると言う事件が起きました。牡丹社事件です。
明治政府は、台湾出兵の準備をしつつ、副島外務卿が日清修好条規・批准書交換の為、北京を訪れた時、牡丹社事件の件でも交渉しました。
清国政府はこう言いました。
「台湾の住民は、「毛外の民」で、その地域は教化の及ばない所」と言って全く責任を取らなかったのです。
日本は、この対応を逆手に取り、陸軍中将、西郷従道を台湾に派遣し、兵を送りました。
日本軍が、台湾の一部を占領したのち、大久保利通が北京に入り、再交渉します。
清国は日本に50万両を払い、代わりに日本軍は台湾から撤兵する事を約束します。
1894年(M27)日清戦争が勃発。
日本は、当初の予想通りに勝利します。
下関で講和条約締結。
日本は、清国に遼東半島、台湾の割譲と賠償金支払いを要求しました。
因みに、支那へ朝貢し、日本とも交流していた琉球王国の日本領編入を決定したのも、日清戦争後です。
しかし、ここで歴史上有名な三国干渉が起きます。
下関条約締結後の6日後、言い出しっぺのロシア、そしてドイツ・フランスが遼東半島、台湾の領有権は賠償金と引き換えに清国に返還しろと言うものでした。
台湾住民の間には、台湾割譲に反対し、徹底抗戦すると言う声が沸き起こり、急速な台湾独立を支援する動きが巻き起こったのです。
日本政府は、台湾のこうした動きを察知し、列強の干渉を未然に防ぐ為、台湾の法的な受け渡しと軍事的占領を急ぎました。
樺山資紀(カバヤマスケノリ)海軍大将を台湾総督に任命し、軍と共に台湾上陸を開始しました。
台湾の当時の人口は、先住民が45万人、移民は255万人、合計約300万人でした。
台湾住民の抵抗戦は、思いのほか強く、戦闘になり台湾側の死者は1万4千人、日本側の死者は僅か278人だったそうです。
2.インフラ整備と産業の近代化
日本の台湾総督府は、まず治安・行政体制の整備、経済基盤の近代化を始めました。
続けて幹線道路、縦貫鉄道、電線通信網・海底電線、水道の敷設、港湾設備の拡張、総合病院の増設も行いました。
学校教育にも重点をおき、台湾人に対して、義務教育の徹底を図りました。
「教育は諸刃の剣」とも言われ、台湾人に必要以上の教育を施す事に対して、消極的な意見も国内に散見されましたが、現地の産業労働者、行政官吏職、中堅技術者を確保するには、現地人を教育し、現地人を採用する事が不可欠でした。
時は、WW1終結の時期で、日台は戦争景気を享受し、産業は好調になり国民所得GDPも増大していました。
総督府は、財政黒字を利用し、豊かな財源を投じて「同和政策」の推進と「産業振興」の人材育成と、教育制度の拡充、本土と台湾の制度の一元化を推し進めていました。
1944年(S19)の台湾の就学率は、驚異の92.5%にまでなりました。
人口も統治前の倍のおよそ600万人にまで増加しています。
3.敗戦と在台湾の日本人
S20(1945)8.15、玉音放送と共に、日本は連合軍に降伏し、敗戦を迎えました。
しかし、終戦直後、殆どの台湾住民は日本の敗戦が自分達にとって、何をもたらすのか、何を意味するのか分かりませんでした。
何故なら、台湾総督府や他の行政機関は健在であり、日本軍もほぼ無傷のまま駐屯していたからです。
まもなくそれが、「台湾の支那への返還」をもたらす事を知る事になります。
最後の台湾総督府、安藤総督は戦犯として逮捕され、上海へ移送。
そのまま腹を切りました。
支那本土、東南アジアの戦地から、続々と台湾兵の復員帰還が始まりました。
在台湾の日本人約49万人の殆ども、国民党が必要とした一部の人材を除いて、日本本土へ引き揚げ始めます。
台湾からの引き揚げは、満洲、朝鮮と比べ、殆ど何の混乱もなく完了します。
日本軍と日本人の行政職員、警察が台湾から引き揚げた後、蒋介石国民党が上陸してくるまで4年程の空白期間があった様ですが、この間、台湾は一時的に無政府状態に陥り、治安悪化や社会混乱が生じたと言います。
■国民党政府がやって来た
1.犬が去って豚が来た
日本兵、官吏、警察の代わりに登場したのは、貪欲で無規律でだらしの無い国民党兵、官吏や警察でした。
行政職員は、縁故採用され、いい加減な行政機関が形成されます。
たちまちインフレと食料・物資不足、社会不安が増幅し、住民生活は極度に悪化します。
当時、台湾の市街のあちこちに犬と豚が描かれたポスターが貼られていました。
ポスターにはこう書かれていたそうです。
「犬(日本人)はうるさいが人を守る事が出来る。豚(国民党政府)は食って寝るだけだ」。
2.虐殺と粛清の嵐
住民の不満は鬱積し、1947(S22)2.28、あの二・二八事件か勃発します。
きっかけは一人の女性がヤミ煙草を密売していた為、取締対象となった事でした。
煙草は、専売品でしたから直ちに没収されましたが、同時に所持金も全て取り上げられます。
現金の返却を求めた彼女を、取締員が銃で殴打していた光景を目撃した住民が取締員を襲撃したのでした。
住民は、取締まる側、自らが煙草を密売して稼いでいた事を知っていたのです。
国民党政府が、自ら汚職、不正を働く兵匪、共匪で構成された組織だった事は、現在の習近平政権が「贅沢禁止令」などで官吏の汚職を取締っている事からも容易に推察出来る筈です。
国民党政府の取締員と、激昂した住民が衝突し、政府は、住民に対し武力攻撃します。
機銃掃射により、住民側に大量の死傷者が出ます。それは、武力鎮圧と言う名の粛清(殺戮)でした。
台湾人に対する無差別の殺戮は、全国に広がり台湾人の抵抗は、完全に鎮圧されました。
殺戮は、主に機関銃掃射を使う以外に、鼻、耳を削ぎ落とし、手のひらを裂いた穴に、針金を通して数人一組に繋いだり、麻袋に詰めて海や川に投げ捨てるなど残虐極まりないものでした。
支那大陸人お得意のミューティレーションと言う残忍な因習でした。
横道にそれますが、ミューティレーションの類は、通州事件、南京事件、支那事変、間島事件等々でも行われています。
これ等は、South Koreaの独立記念館に行けば、大陸人ではなく、日本軍が好んでやっていたように展示されていますが、そんな残酷未開な因習があるのは、支那人と、その支那人に近づく事が一等国民の証と信じて永年朝貢を繰り返す朝鮮人の方です。
逮捕されても処刑の前に市中を引き回され、処刑後は数日間にわたり市民への見せしめとして放置された人も多くいました。
犠牲者数は、推定2万8千人となっています。
この数字は、二・二八事件に限定したもので、国民党の餌食になった台湾住民は、総計10万人以上とも流布されています。
国民党政府は、台湾人の政治改革の要求に正面から対処する事なく、虐殺と粛清で封じ、それは外省人(支那人)と台湾人(本省人)の対立をもたらしました。
現在も残る本省人と外省人の対立は、この二・二八事件に起因しています。
出典:台湾よ何処へ行く(田中健次著)、wikipedia japan、NAVER等々
乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
(あれっっ???半分にして聞いて下さいね)残念ながらまだ大脳皮質は正常(だと思います)認知能力は曖昧ですけど(Funny))
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