
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
矢玉(やたま)の西側は響灘に面し、背後に山間を縫って矢玉川が流下し、その河口のデルタ地帯に位置する。地名の由来について地下(じげ)上申は、往古、蒙古襲来の時、矢と玉をこの地の者が献上 したので矢玉といったとあるが、文字に合わせた附会のようでヤタ(低湿地)、マ(間)のことではないかとされる。(歩行約1.6㎞)

土井ヶ浜バス停からブルーライン交通JR二見駅行き(13:25)約5分、矢玉北バス停で下車する。

バス停から引き返し、加藤味噌醤油醸造場より路地歩きをする。

1914(大正3)年9月10日に大火が発生するが、民家が密集しているため、江戸期以降においてもしばしば大火に見舞われた地域である。

夜珠橋で矢玉川右岸に移動する。

どこからでも海に通じる路地がある。


防波堤入口にある碑は「夜珠‥」とは読めるが、下の方は読めず。防波堤か漁港に関するものだろう。

碑の傍にある下関要塞第一区地帯標は、蓋井島に砲台が設置されたことから「要塞地帯法」により、この周辺が第一区地帯となった。(今も漁協により防波堤は立入禁止)

醤油醸造場の煙突と煙り出し。

集落内の人家は密集度合いが高い。

矢玉浦は江戸期には長府藩領で、地域内の大部分が本藩領であったため飛地であった。その理由として田耕(たすき)、粟野などからの年貢米を運ぶ時、その中間地や避難地として矢玉浦が必要だったとされる。(海辺に恵美須社)

恵比須社から見る第2種の矢玉漁港は、1955(昭和30)年以後に海岸部が埋め立てられ、数回にわたって整備が行われた。

西慶寺(真宗)は、大内義隆の家臣であった俗性伊藤兵庫種康が、仏恩の深きを感じて剃髪して僧となる。神田村において山野を開拓し、一宇を建立したのが同寺の始まりという。時に室町期の1547(天文16)年という。